河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
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第8話『ブリンカー・ドリンカー ― 前編 ― 』

桜 夏男ハルノキ ナツオは、imaGe用のVRゴーグルを手に取った。
セルフレーム製のポピュラーなメガネ型で、レンズ部分がセパレートになったタイプだ。
1枚フレームのバイザー型が欲しいところだけど、なかなか気に入ったものがみつからず、中学の頃からずるずると、この“メガネ”でVRにアクセスしている。
シャツの裾でレンズの曇りを拭き取りメガネを掛けると、普段imaGe用のモニターにしているコンタクトレンズから、メガネへアイコンの表示が移動した。
上段に並ぶアイコンの中から『馬』のアイコンへ視点をあわせ、チャットルーム『ブリンカー』を呼び出す。
馬は威勢よくブルルと首をふりながら棹立さおだちになり、視界がホワイトアウトした。

『このチャットルームには、成人向けコンテンツとして、ギャンブル、飲酒、セクシャルというキーワードが登録されています。本当にアクセスしますか?』

おきまりのアクセス確認は『はい』を連打してやり過ごす。
真っ白な空間の中央から無数の線が伸びてきて、複雑に絡まりはじめる。
軽く目を閉じて待つと、やがて威勢よく「ヒヒヒヒヒヒーン」と馬がいなないた。
ログイン完了の合図だ。
ゆっくりと目をあけるとそこにはブリンカーの光景が広がっている。
床のいたるところに散らばったデジタル酒「デリカー」の空き瓶アイコン、つまみにした食品風味プログラムの空パッケージ、いつも腰掛けているソファの肘掛け、重厚なエグゼクティブデスク、壁側に浮かんだデリカースタンプカード、晴天の広がった天井。
「あれ? 晴れ?」
思わず韻を踏んでしまった。
天井一面にさわやかな晴天が広がっていた。
チャットルーム『ブリンカー』は、現実世界とリンクした天気が部屋全体に描写される設定になっている。
部屋主ルームオーナーのチクリンいわく、競馬場と同じ環境を体感することで予想の精度を増すためだという。
したがって、現実世界で外にでるのをためらうほど盛大な雨が降る本日は、ブリンカーにも激しい雨空が描かれているはずなのだ。
しかし、ブリンカーには快晴の空が広がり、太陽光ライトからはご機嫌な陽射しが降り注いでいる。
「お、ハルキー! おはよー」
ソファと対面するように配置されたエグゼクティブデスクの方から、チャットメンバー『タンジェント』の声がした。
呼びかけに反応し『ログイン名:桜 夏男→ハルキ ログイン場所:黒井チクリン競馬倶楽部チャットルーム ブリンカー』の表示を確認してからタンジェントをみると、“彼女”は今週も大小様々なエアロディスプレイに囲まれていた。
もちろん、挨拶から1度もこちらをみようとしない。
「おはようタンジェント。ねえ、今日は雨なのにこっち晴れてるね」
「あ、これ? 勝手にかえちゃった」
横顔でもわかるくらい歯をむき出しにしてタンジェントが笑った。
彼女を取り囲むエアロディスプレイは、仮想空間内でデータや画像をみるときに使うスクリーンで、空間内に何枚でも浮かべることができる。
何枚でも使用できるけど、さすがに多すぎだといつも思う。
「タンジェントが変えたの?」
「そうだよぉ! だってさ、気分がくらーくなっちゃうでしょ! あの雨みてたらさー」
タンジェントそういいながら「エイっ」と小さくつぶやき両腕を右側へ押しのけると、スクリーンが一斉に配置をかえる。
その隙間からは、楽しそうにデータを眺めるタンジェントの横顔が一瞬みえた。
スクリーンの背面は透明度を設定できるが、タンジェントは常に背面の透明度を『0』に設定しているため、内容はおろかスクリーンの奥にいる本人も隠れてしまう。
幸いなことにタンジェントはときどき、踊るような身振りでスクリーンを散らしたり集めたりするから隙間から横顔がみえたりはするのだが。
「勝手に天気の表示変えたら、チクリンに怒られるんじゃない?」
「平気だよー。いくらチクリンでもあれだけ雨降ってたら、さすがに天気忘れないよー」
「ああ、そりゃそうか。いくらチクリンでもね」
「それに、チクリンが天気を意識したって予想に活かせるわけないじゃん! まじめだなー、ハルキ」
ここまで話しても、ディスプレイをせわしなく見渡すタンジェントとは視線があわな──
「ハルキ……」
驚いた。
タンジェントが、真っ正面から自分の方へ視線を向けていた。
「チクリンも忘れないくらい、今日の雨はすごいよねー。今日のレースは絶対に荒れるよー」
差し込む陽射しがタンジェントの白い肌を、よりいっそう際立たせていた。
「う…」
吸い込まれそうな深い黒い瞳に突然のぞき込まれたせいで言葉につまってしまった。
「う、うん! そ、それよりもさあ、タンジェント」
照れ隠しに、咳払いをしてルーム内を大げさに見渡した。
「来るのは早くても、今週も片付けには未着手ということで……」
「アハハ、ごめんねハルキー。どーしても掃除は苦手なんだー」
「し、しかたないなー」
こんなにストレートに謝られたらなにもいえないし、沈黙になってしまうのは怖いので片付けに集中することにした。
ハルキは上がり、両手を広げて“胸元にかきこむ”ように円を描いた。
ジェスチャー『不要物の収集』をチャットルームが関知して、散らばっていた再生済アイコンが吸い寄せられてくる。
すかさず右足を踏み込んで『ゴミ箱の蓋を開ける』、ジェスチャーを実行する。
フタの開いたゴミ箱から”すえた臭い”が再現される。
チクリンは余計なところまで細かい描写をいれすぎだ。
嗅覚をオフに設定して、ゴミ箱へアイコンを流しこみはじめた。
不要なアイコンは音もなくゴミ箱へと吸い込まれていき、デリカーの空き瓶がゴミ箱に1本消えるたび、左手の壁に浮かんだポイントカードのスタンプが増えていく。
「あ! ちょっとまって! ハルキ!」
タンジェントがめずらしく急いだ声でいった。
反射的に右足の力を抜いてゴミ箱のフタを閉じると、吸い込まれそこねたデリカーの空き瓶アイコンがぼろぼろと床にこぼれた。
「あと2本でスタンプがいっぱいになるねー」
タンジェントが指さしたスタンプカードは、スタンプ2個分の余白を残しプカプカ浮かんでいた。
「ハルキ、これ勝手に埋めちゃったら、チクリン怒るよねーきっと」
「あー、確かに。チクリンかなり楽しみにしてたもんね」
「よし! ハルキ! ゴーゴー! 埋めちゃおう!」
「いやいやいや、やめとくよ、チクリン、いい歳して本気でスネるから」
「それが、おもしろいんじゃないかー、やっちゃえよハルキー」
タンジェントは肘掛けのついたデスクチェアを軋ませながら両手を頭の後ろへ回した。
「ぜったいめんどくさいよ、チクリンがすねたら」
「誰がめんどくせえんだよ」
背後からの声に驚いて振り返ると、チクリンが上下黒のスウェット姿でソファのうえに胡座をかいていた。
「おまえら、イチャイチャしてんじゃないよ、日曜の昼間からさぁぁ、ふわぁぁぁぁ!!」
チクリンは話ながら叫ぶよにあくびを放つ。
おそらく本体もあくびをしているんだろう。
チクリンはムダに細かい動きをチャット内で再現してくる。
「チクリン、だいぶ眠そーだねー!」
「うるせーな、タンジェント。昨日の夜中によー、急に仕事がはいって、さっき起きたばっかなんだよ」
「またエロアバターの依頼?」
「ハルキ。エロアバターじゃない。セクシャライズアバターだ。いいか、エロだけが目的のアバターじゃないんだ。セクシーというのは、美だ。いわば芸術と同義なんだぞ」
「そ、そうだったね。その話は後できくよ。ところで、チクリン予想間に合うの? あと15分くらいで発走だよ」
「だいじょぶ、だいじょぶ。こちとら1週間前からずっと予想してっから」
「それはまた、ムダな努力だなー。ねっハルキ?」
「う、うん。ほんとに」
「ふざけんなよおまえら! G1レースの予想なんて1週間前でも遅いくらいだろ! そういうおまえらこそちゃんと予想してんだろーな」
「あったりまえじゃん」
「お! タンジェント、自信ありそうだな! なに買うんだよ?」
「教えるわけないじゃーん。そうやってワタシの予想あてにするのみっともないよー」
「ち、違うっつーの! ハルキはなに買うんだよ?」
「いわないよ。チクリンに話すとツキが落ちる気がするから」
「なんだよツキって古いなそういう考え方」
「チクリンの方こそ、縁起とかめちゃくちゃ気にしてるだろ。いつも」
「おまえな、縁起とツキはまた違ったものだぞ。だいだい勝負ごとってのは……お、あ!」
チクリンのアバターの背筋が急に伸びた。
ボリュームのある天然アフロヘアのせいで、横から見るとブロッコリーが飛び跳ねたようにみえた。
「デリカースタンプ、あと2つじゃん!」
叫びながらスタンプカードの前にチクリンが走り寄る。
「ああ、そうそう。忘れてた。もう少しでいっぱいだから、空き瓶とっといたよ」
「マジか! ハルキおまえわかってんなー。空き瓶、8本くらいあんの? カード埋まるなこれで」
チクリンが両手をニギニギとたわませながら近づいてきた。
「なんだよ、その動き。チクリン、そういう動きどこでみつけてくるの?」
「いいから、空き瓶よこせよ」
ひったくるようにアイコン取り上げたチクリンは、“空き瓶”を1本ずつゴミ箱へ投げ入れた。
「セイっ! セイっ! おっし! これでいっぱいに……、……あれ?」
しかし、満杯になったスタンプカードからはなにも反応がない。
「あれ? 何これ、スタンプ貯めたらプレゼントがもらえるって書いてあったのに。ハルキ、残りの瓶かしてみろ! ……セイっ! セイっ! セイっ!」
次、次に投げ入れるが変化なし。
「おいおい、ふざけんなよ!」
チクリンは、ゴミ箱アイコンに向かって怒鳴った。
ゴミ箱をのぞき込む姿は、ブロッコリーがみずから生ゴミの袋にダイブしにいっているような、なんとも考えさせられる光景だった。
「あれ? なんだよこれ、セイっ!セイっ!セイっ!」
残りの空き瓶アイコンがゴミ箱に消えた。
すると、突然スタンプカード上に、ドドッドドとスタンプが重なった。
「はぁ!? これ何本でいっぱいになんだよ。詐欺みてーなキャンペーンだな、おい」
チクリンは空中を叩き“デリカーの購入”コマンドを実行した。
ガタンと音がして、デリカーが1本降りてきた。
「え? チクリン、もう飲むの? レースは?」
「え。あ、やべぇ忘れてた。しょうがねえなー、あとでデリカーのサイトに文句いいにいこうぜ」
「チクリン、もーすぐ締め切りだよー」
タンジェントがご丁寧に、巨大なカウントダウンタイマーを呼び出して空中に掲げていた。馬券の購入締め切りがだいぶ迫っていた。
「だいじょぶだよ、今日は、単勝1点勝負だから」
「え? チクリン、単勝! 1点!? 何買うの?」
「ふふ、今年こそ、今年こそだ! ハルキ!」
迷いのない指さばきで、空間内に購入フォームを呼びだしたチクリンは、淡々と馬券購入フォームの入力を進めていく。
単勝ということは、選んだ馬が1着にならなければならない。これだけの気迫で単勝に賭けるということは、今週は本気の大勝負なのだろう。
「今年こそ、くる! 8番ニシンガキタ!」
「えっ! ニ、ニシンガキタって、かなりの人気薄だよ! 単勝100倍こえてるよ……」
通常なら、人気がない馬が1着に入ることは滅多にないからだ。
上位の人気を獲得する馬はやっぱり実績を伴っていることが多い。
しかし、タンジェントがいっていたように、この悪天候なら思わぬ番狂わせがあっても不思議ではない。チクリンの気迫がもしかしたら奇跡を引き寄せるのかもしれない。
「ハルキ、ロマンとそろばんって知ってるか? 夢とオッズが合致したら迷わずいけってことだ!」
「意味が違うとおもうよーチクリン」
「いいんだよタンジェント! よし! これで決定! ソイヤー!」
チクリンがひとしきり力強くボタンを押した直後、まるでみはからったように『ブリンカー』内に締め切りを知らせるベルが鳴り響いた。
このチャットルームは競馬場のアナウンスが連動して流れるようになっている。
『ただいまメインレースの発売を締め切りました』
アナウンスを聞き終えたチクリンが不敵に口元をゆがませた。
「ふふふ、ハルキ。ニシンガキタは、確かに人気薄の馬だ。なぜなら、12歳という高齢馬だからな。いいか! 12歳だぞ! まわりは4歳、5歳の走り盛りの若駒たちに囲まれて、それでも走るんだぞ! ニシンガキタは、すごい馬なんだ。4歳のときにこのレースを制した実績がある。それから毎年、出馬しつづけ、4年後、8歳馬のときにも、なんとぶっちぎりの1着だった。4年ごとに進化してるんだよ。この馬は。それをどいつもこいつも、年齢で判断しやがって。今年はブービー人気じゃねえか。恩を知らないヤツらに目にものを見せてくれるはずだ! それにな……」
「そ、それに…?」
「ニシンガキタは晴れの芝じゃないと走らない。これもまた宿命さだめだろう。なぜか4年に1回晴れるんだ。このレースの日には。だから今日ここに来て確信したよ。これは運命なんだとな。みろよ」
チクリンはまっすぐに『ブリンカー』の天井を指さした。
「この天気だ……。晴れた……。今年も……。これが運命というんだ」
チクリンは陶酔したように目を細めて太陽に手をかざした。
「え、あ、チクリンこの天気は……」
「ハ、ハルキ!」
タンジェントの慌てた声がしたので振り返ると、タンジェントは人差し指を口元にあて、少しはにかむようにこちらをみていた──



次回 7月14日掲載 
「ブリンカードリンカー −後編−」へつづく


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