河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
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第9話『ブリンカー・ドリンカー ― 後編 ― 』

「はあぁぁぁ!?」
チクリンが吠えた。
「なにしてくれてんだよ! タンジェント!」
「アハハ、ごめんごめん」
「なんだよこの雨! なんで天候表示かえてんだよ!」
競馬観戦チャットルーム『ブリンカー』の中央に置いた自由表示枠フリーグリッド上には、競馬場から配信される立体ビジョンが表示されていた。
さんさんと太陽が輝く『ブリンカー』の天井そらとは対象的に、現実リアルの競馬場は大量の雨が降り注ぐ雨空だった。
それをみた直後にチクリンが吠えた。
「完全に、馬場“不良”じゃねえかよぉ! ニシンガキタ走るわけねえだろ!」
競馬場の地面、“馬場”は天候の影響で状態が変化する。
晴れの日が続き馬場が乾いているなら『良』 そこから馬場の状態が悪化するにしたがって
稍重ややおも』、『重』、『不良』となる。
朝から続いている大雨であれば今日は『不良』になっている。
悪路をもともと得意とする馬もいるから、一概に馬場が悪いからダメだとも言い切れないが、一般的に芝のコースでは、地面が濡れるほど、馬場が緩くなり走りにくい状態になるとされている。
つまり今のコースは相当な水を含んで走りにくい状態のはずだ。
良馬場を得意とする馬たちは、いつもの走りができず順位を落とす可能性も高くなる。
タンジェントもいっていたように、今週は波乱の要素が詰まっているのだ。
でも、チクリンが選んだニシンガキタは、『良』馬場での実績が多いことから悪路での活躍は期待できない。
「でもさ! でもさ! 雨が降っててもチクリンはニシンガキタに賭けてたでしょ? きっと?」
「勝手に部屋の設定変えといて、開き直ってんじゃねえよ!」
チクリンはタンジェントに詰め寄っていた。
「やめなよチクリン。だいたいタンジェントのいうとおりだよ。そこまで決めた馬券、天気で替えたりしないでしょ?」
「ハルキ! おめーまでそんなこというのかよ!」
「それにさ天気、知らなかったの? さすがに気づくでしょ」
「だぁーかぁーらぁぁー。起きてすぐに、ログインしてきたから外をみる余裕なんて無かったんだよ」
「それは、チクリンが悪いと思うよー。ワタシは、毎日ちゃんと天気も気温も湿度もちゃんと確認してるよー」
「しかたねーだろ。仕事忙しいんだからよ!」
「それはいいわけだよーチクリン! 気温や湿度のデータが無くても予想できるってことは、チクリンは予想に天候データを使っていないてことでしょ? それにねーだいじょうだよー! 今日のレースは。荒れるから! 悪路が得意な馬もいないし」
「ホントか? それ?」
「うん。全馬の比較してるけど、今年のメンバーは道悪みちわるの経験ない馬ばっかり。チクリンある意味、運がいいよー。条件みんな一緒だから。ニシンガキタにもチャンスはあるよー!」
タンジェントが、事前にレースに対する見解を語るのはめずらしい。チクリンもそれを感じ取ったのだろうか。
「そ、それならまあよぉ、許してやるよ」
タンジェントの言葉でおとなしくなった。

競馬──
遥か古代から人間と馬が共に競ってきた競技。
長い長い時間、多くの人々を魅了してきた。
imaGeのアーカイブを探れば過去のコンテンツを追体験することができるけど、競馬ほどリアルタイムにこだわりたいと思うコンテンツは他に思いつかない。
毎週同じ曜日、時間に同じメンバーがヴァーチャルチャットルームに集合して、ヴァーチャル空間内にヴァーチャルの立体ビジョンを用意して、“ヴァーチャルインヴァーチャル”というややこしい環境で大騒ぎする。
こんなこと、そうそうあることじゃない。
現地リアルの競馬場でみまもっている観衆をみると、いつも競馬の求心力の強さを考えてしまう。
立体ビジョンならかなり近くからレースを観戦できるのに、現実の観戦席からレースを観るために、これだけの人々が実体を移動させて一カ所に集うのだから。

「おい、ハルキ、ファンファーレはじまるぜ! そろそろ『新聞』だせよ!」
チクリンの声で我に返った。
「え、もうはじまる?」
少し慌ててしまった。
視野内から『アイテム選択』を呼び出して『新聞』を選択すると、自分の両手に筒状に丸まった競馬新聞が表示された。
「ハルキー、またなんか哲学的なこと考えてたんでしょー」
「おまえ、たまにイタイこと平気で口走るからなぁ」
チクリンが半ばあきれたような顔でこちらをみていた。
いつのまにかチクリンのアバターは“タキシード”を身につけていた。“ソファの上であぐら”は変わらないけど、心なしか背筋だけはいつもよりしっかり伸びているようにみえた。
チクリンはG1レースを観戦するときには“正装”を身につける。
紳士的な競技であり、格式の高いレースに対する敬意を示すためだという。
さっきまでスウェット姿で、女性型アバターをさんざんに怒鳴りつけていたというのに。
「おっ、はじまるぞー」
チクリンが立体ビジョンを指さした。
白いジェケットにネクタイを締めたスターターが緑色のゴンドラへ悠然と歩みよる。
スターターを乗せたゴンドラはゆっくりと浮上し、地上数メートルの位置で停止した。重力を操る浮遊物質『エーデル・フロート』が発見されるまでは、このスタート台を持ちあげるために昇降機をつけた車が用意されていたそうだ。
立体画面は、スタートゲートからスターターのいる場所までを一望できる状態で固定した。
ゲート付近では雨具をみにつけた係員たちが、スタートに向けてせわしく動きまわっている。
観客も、馬も騎手も雨の中でその瞬間を待っているのだ。
「さあ、くるぞくるぞー」
チクリンは両手に表示させた新聞を軽く叩きながらつぶやく。
観客席の音声にも、パンパンパンッと紙がぶつかり合う音が混じりはじめた。
スターターが、赤い旗を翻す。
管楽器の甲高い音が雨音を切り開くように鳴り出しメロディを奏ではじめる。
演奏にあわせ、観客席に散らばる無数の新聞紙が揺れ出した。
チクリンはもちろん全力で新聞を振っている。
タンジェントは新聞を持たず、自前のディスプレイを静かに眺めていた。
ファンファーレがクライマックスに達して、観客席の歓声も最高潮を迎える───

『さあ! 各馬体勢完了』
実況の声が告げる。
スタートゲート内に納まった馬たちが一瞬動きを止める。
一拍の緊張と間を置いて、盛大な金属音とともにゲートが開いた。
『スタートしました!』
各馬が一斉に飛び出した。
「よし! いいぞ、ニシン!」
チクリンの声。
歓声と直後にどよめき。
『あっと! ミスデジタルは出遅れ!』
客席から失望と驚きが、ため息と怒声になって巻き起こる。
「なにやってんだよ、ミスデジタル!」
気づけば叫んでいた。
チクリンの馬に気を取られていたけど、自分の本命馬が出遅れるのはシャレにならない。
「なんだ、ハルキ、1番のミスデジタルから流してんの? 内側はダメだろう今日は馬場荒れまくってるし」
チクリンの言葉に反応する余裕はない。
ミスデジタルしか目に入らない。
先頭の馬から順に最初のコーナーへ突進していく。猛然とながれていく集団。ワンテンポ遅れてミスデジタル。
集団から完全に離れた位置を走っていく。
「先手を奪うのは、キンエンシツ、イマゲンミラクル」
向かいの席からタンジェントの声がした。
『さあ、キンエンシツ、イマゲンミラクルが先頭で第1コーナーをまわる』
続いてスピーカーから、実況の声。
タンジェントはいつも実況よりも先にレースの展開をささやいていく。このレース展開もすべて計算に入れて予想しているんだろう。
中継を観るときのタンジェントの声にはいつもの脳天気な要素は一切ない。余計な話もせず、立体ビジョンにも目をくれず、アングルごとに振り分けたエアロビジョンを一望できるポジションから微動だにしない。
目だけがせわしなく動いている。
「向こう正面、先頭からキンエンシツ、イマゲンミラクルが変わらず先頭、その後馬群を形成するのはフカイショウゲキ、バッドリンク……」
『コース向こう正面、先頭からみていきましょう。キンエンシツ、イマゲンミラクルが変わらず先頭、その後馬群を形成するのはフカイショウゲキ、バッドリンク……』
アナウンサーの原稿をいまタンジェントが書いているんじゃないかと思うくらいピタリと展開が一致する。
先頭集団が3つめのコーナーにさしかかる頃になってもミスデジタルはまだ殿しんがり(最後尾)にいる。
すぐ前にはニシンガキタの姿。
「ふふふ、ニシンガキタは、その昔、ニシン漁で栄えた一族の末裔の馬なんだ……。じっとじっとたえて、ニシンがまた来ると信じたひとたちの思いがこめられているんだ。最後の直線が勝負なんだ。来るぞ、来るぞ。ニシンは来るぞ…来るぞ…、来るんだ。来るんだニシン……来るぞ…来るぞ……」
チクリンもずっと、独り言をつぶやいている。
『さあ、最終コーナーをまわり、後方勢も一気に差を詰めてくる!』
ミスデジタルも、集団に追いついていた。
先頭をまもって走っていた馬たちのスタミナが切れるころに、後方で力を貯めていた馬たちが競りあがってくる。
最後の直線で、レースは大きく動く。
会場からは各馬の名前を呼びかける声や歓声があがる。
「いけ! いけ! いけええええ! ニシーーン!」
チクリンもすで最高潮だ。
でも視線を移す余裕はない。
『さあ、直線、ほぼ差がなく全馬の叩きあい!』
チャットルーム全体に歓声が渦巻く。
会場内の観客の歓声も最高潮だ。
後方から1頭の馬が速度をあげる。
『大外からニシンガキタ! ミスデジタル! イツカノディストピアがものすごい脚で襲ってくるぅー!』
「よし! きたあああ!」
チクリンと声が被ってしまった。
コースの外側から先頭に一気に躍り出たミスデジタルとニシンガキタそれからイツカノディストピアが、ほぼ同スピードでの競り合いだ。騎手たちの鞭も激しく入り乱れている。
『内ミスデジタルぅ! 外ニシンガキタ僅かに先頭ぉ! イツカノディストピアも追いすがるぅ! 内、外、内、内』
「ふざけんな! そのままだ! 来い! 来い! ニシンが来い!」
3頭の馬体が固まってゴールへ近づく。
『3頭がそのままゴールイン、わずかに先頭はイツカノディストピアが体勢有利かあああああ!』
「ああああああああぁぁぁあぁぁぁぁ」
アナウンサーの実況を引き継ぐように、チクリンは叫び声をあげてソファへ倒れ込んだ。ご丁寧に“馬券投げ”の効果を伴って。
馬券が空中を舞う中で、一瞬ソファの画像が揺らいだ。
現実リアルのほうでVRチェアからころげおちたんじゃないだろうか、チクリンが呻き声をあげた。
「ふざけんなよぉー、あそこまでいったらきっちり差せよぉー」
手が震えた。
「え! ハルキ、イツカノディストピア買ってんの?」
 震えたのをみとがめられたのか、チクリンは猛然と食いついてきた。
「う、うん押さえてた…。た、タンジェントは?」
「ふふふ! シャキーン!」
タンジェントは効果音を叫びながら1枚のモニターをこちらにむけた。的中だった。見事に。
「ハルキー! やったねー! これはかなり期待できるよ! 3頭ともぜーんぶ人気薄だからねー。チクリンおしかったねー2着だよニシンガキタ」
「なんなんだよ! おまえらなんでかえたんだよあの馬券。いや、タンジェントはまあいつものことだとして、ハルキ! おまえはなんでだよ! 最低人気だぞ! イツカノディストピアなんて」
「この雨だから、人気の無いところに流しただけだよ」
「おまえら、ふざけんなよ! 天候かえたうえに、なんでこんな馬券とれんだよ! あーーーーーもうやる気しねえ」
「チクリンが怒ってるよーハルキ。しかたないなぁ慰めてあげよっかなー」
タンジェントは上機嫌でこちらを向いた。馬券が当たって浮かれているのかもしれない。
非常にめずらしいことだ。タンジェントが馬券を当てるのがではなく、馬券が当たってうかれていることが。
「よし! 今日はおごっちゃおうかなー、チクリンのやけ酒パーティだー! それ、よっと」
タンジェントは、両手でリズミカルに“デリカーの購入”コマンドを繰り返した、どんどんとデリカーが降ってくる。
「そーれ、ドンドンドン! ドンドンドン!」
あっというまに、ルーム内の床がデリカーで埋まってしまった。
「チクリン飲もうよ! そのスタンプカード調べてみたけど、スタンプまだ足りないみたいだよ。最高で128本分のスタンプ貯めてもプレゼントもらえない人が居たらしいからぁー」
「おまえ、浮かれてんな、そんなに配当付いたのかよ」
タンジェントがいくら賭けているかはわからないけど、途方もない金額のはずだ。
本命の予想ではないから抑えめに賭けていた自分の配当ですら、たった数百円の賭け金に対して10万円を超える配当があった。
狙いすまして馬券を取りに行くタンジェントは、資金も集中させているはずだ。
ということは、恐ろしい金額が的中していると思う。
「それ、チクリン飲んで! 飲んで!」
タンジェントの煽りに乗ってチクリンは、デリカーを飲み干していた。
「おらおらおら当たれよ! ドリンカー」
チクリンはタキシードのまま蝶ネクタイを頭に巻き付け、まるで出荷を待つブロッコリーのようだった。
ゴミ箱に瓶を投げつけている。
「ハルキも飲めよ! チクショー」
チクリンがデリカーを飲み干しては、ゴミ箱へ瓶を投げ入れる。スタンプはあいかわらず重なりあって次々と貯まっていく。
「マジでこのスタンプ詐欺だろ! 貯まりす、えぇ!?」
チクリンの素っ頓狂な声につられてカードをみると、スタンプは『ブリンカー』の空間内にまで飛び出しはじめていた。



次回 7月21日掲載
『配当金の行方』へつづく


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