河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
  前に戻る 膨らむIYASHI CHAN  次を読む

第26話『 fly me to the soonフライミートゥ ザ スーン -4- 』

「お兄さんやりますねぇ。飛行機の中にこんなレアなの、持ち込んじゃって」
豊川は舐めるように手元のクッションに顔を近づけてくる。
「め、珍しいんすか? これ」
「なあに、知らずに持ってたのぉ。それはイケないなぁ」
もしかして法に触れるようなものなのか。
「い、いや、あの、チク……、……友人が餞別にってくれたんですけど使い方わからなくって」
「友達? これ、チクリニック製ってかいてるけど、チクリニックはこのタイプ生産してなかったはずなんだよなぁ」
この人、チクリンを知っているのか。
も、もしかして、SPセキュリティポリシーの関係者……。
「あのメーカーはさ、やっぱり乳頭の表現が秀逸だよね。わかるでしょ。どの角度からみても乳輪の光沢に品がある。ダイヤモンドでいったらブリリアントカットみたいなもんだよ。いいよねえ。チクリニックを選ぶなんてわかってるなあ。いい友人をお持ちですね。えっと、名前は……」
「え、あああ、自分はハルノキっす。桜っていう字で……」
迷ったけど、一応名乗っておくことにした。
「ん? ああ、うん、それはどうでもいいんだけど、このの名前は?」
「え、こ、この子?」
「あれ、名前も知らないで連れてるの? ますますイケないなあ、えっと、ハルヒコくん?」
ハルノキです」
「ああ桜くん。あれ……、これがこの娘の名前じゃないの? I、YA、SHI、CHAN、イヤシちゃん。ああ、そっかそっか。イヤシちゃん。そうかそうか、キミはきっと癒やし系の娘なんだね」
いわれてみれば、クッションの真ん中には、イヤシちゃんと読めるローマ字が書かれていた。
「早く膨らませてあげないと」
「え? 膨らませる?」
「早くしてあげないと可哀想でしょう。ん、なに、もしかしてほんとに初めてなの?」
豊川の顔がさらに迫ってきた。だが、闇のように暗いサングラスの中は覗けない。
「は、はじめてっす。膨らむんすか? これ」
「そりゃあそうだよ。まさかクッションにでもするつもりだったの? そんなマニアックなことする人いないでしょう。ん? なに? ホントに知らないの。これだよこの右上の黒いボタンを押せば膨らむよ、もぉー勝手に押しちゃうよ」
「は、はぁどうぞ……」
「え? いいの? 初めてなんでしょ。じゃあもらっちゃうよぉ、この娘の初めてね、うん」
正直、席の周りが気になった。このやり取り、どう考えても胸をはって誰かに説明できる内容ではない気がする。
「やっぱり、そのままにし──」
「ううぅんん」
奇妙な発声と共に豊川が黒いボタンを押した。
するとクッションが、一瞬にして拳くらいの大きさに丸まって、ベージュというか薄いピンクの塊に変わって、て、手!?
突然、人型の手が1本飛び出し、さらにもう一方の手──
「あうっ!」
手が豊川の頬にペチンッと当たった。
「あ、ああ、す、すみません」
なぜか謝ってしまった。
「おおうっ。元気いいねぇ、うん、うん、いいなあ、イヤシちゃん」
豊川は口元をほころばせ上機嫌に笑う。
塊はあっという間に人型の人形へ変化し、ちょうど豊川の膝の上に乗った状態になっていた。
は、半裸の女性型人形だ……った。
「いいねえ、お兄さん。こんないいものもっちゃって、ん、んんんおお、イヤシちゃんか、確かにね、なんかこう、癒やされるねこの笑顔みてるとねうん。うん。いいねぇ」
豊川は小刻みに頷きながらイヤシちゃんの全身を鑑賞しはじめた。
表情は引き締まり、まるでどこかの画廊で骨董ものの裸婦画を鑑賞する紳士のように神妙な面持ちで、人形と向き合っている。
「これ、俗にいうラブドールっていうんだよ、桜くん」
「ら、ラブドール、これが?」
「そうそう。ほら、手を握ってごらんなさいよ。リアルでしょ? 伸縮製のナノシリコンでかなり精密に再現されてるんだ。これはねぇ、いい仕事してる。さすが、チクリニックだなぁ」
た、確かに、手を握ると、妙に生々しく、女の人の肌に触れている気がした。
そうか、チクリン。
そういうことか。
タンジェントに手を握られてスカイダイビングしたのをこれで再現しろと、この手を握って空を飛べということか。
「このタイプのドールはね、分類については意見がわかれるんだ。ボクはね、伸縮できるこのタイプならば、やはりダッチワイフの方に分類すべきだと考えているよ。複合現実MRが出始めのころにさ、まだ感覚的な情報は制御できなくて映像だけがコンテンツとして提供されてたころの時代にね、映像の外、“現実の方”を補ってくれた尊い存在なんだ。たぶん、この辺に、この娘のアバターとしてのコードが隠れてるはずなんだよねえ……ちょっっとごめんねぇ」
豊川は、ダッチワイフが唯一身につけている布のふちへ手を掛け、下へずらそうとし……
「あの! お客様!」
突然、甲高い声がした。豊川は動きをとめゆっくり声の方を振り返った。
「き、き、機内にこのようなものを持ち込まれるのはほ、他のお客様のご迷惑になりますので」
かろうじて毅然とした表情を保ったCAさんが立っていた。
「ご、ご遠慮いただけないでしょうか」
「あ、いやでも、こ、これ大切な友達がくれたやつで、この手握ってると、空とべそうな気がするんです」
「は、はぁ……」
とたんに、CAさんの表情に最上級の軽蔑の色が混じった。ま、まずい唐突すぎたみたい。
「あ、あの自分、その、高所恐怖症で女の人がいないと……」
「ふむ、これはいけないなぁ」
神経質そうな額にシワを寄せ、豊川がいった。
まるでコンテストの審査員が舞台を見つめるように、厳しい眼差しだった。
さっきまで、あんなに偉そうにダッチワイフについて語っていたくせに、女性のCAさんが来た途端に手の平を返しやがっ──
「キミ、早く厚手のブランケットをもってきてくれないかな。このままじゃイヤシちゃんが風邪ひいちゃうじゃないか」
諭すようにやさしい微笑みを向けられたCAさんは、少し後ずさりしながらなにかいいかけたが、後ろから小走りでやってきたもうひとりのCAさんに止められた。
「豊川様」
「はい? 豊川ですが」
後からきたのは先輩なのだろうか。最初に来たCAさんと比べ、この場に動揺していない。
「豊川様、お席をお間違えではございませんか」
「ああ、いいよ今日は。イヤシちゃんの下に座らせてもらおうかとおもうんだよ」
「し、しかし、ファーストクラスからのダウングレードはあまり……お願いいたします」
「そぉ? 仕方ないなぁ」
「恐れ入ります」
2人のCAが深々と頭をさげた。
「それじゃ、ブランケット2枚ここへ持ってきてあげて、風邪ひいちゃうから」
「は、はい……」
先輩CAさんは、下唇をかみしめて踵を返し、奥からブランケットを握りしめ、足早に戻ってきた。
「うん、ありがとう」
差し出されたブランケットを満足げに受け取った豊川は、まるで寝かしつけた我が子にするようにやさしく布地を広げ、座席に座らせたラブドールへそっとかけた。
「この表情は癒やされるねえ。いいねえ」
「豊川様、こちらです」
CA2人に促されてもなお、豊川は名残惜しそうに振り返った。
「じゃあまたね、イヤシちゃん」
去っていく豊川のうねるロングヘアが歩くたびに揺れていた。
座席には自分とこの人形……、い、イヤシちゃん。と、ふたりきりになってしまった。
そっと視線を向けると、“彼女”は微笑みを絶やさず前を向いていた。
た、確かに、この表情をみていると、不思議と心が安らいでくる……。
周りを何度も確かめて、そっとブランケットの下から手を差し入れ、手を握ってみる。
柔らかくてしっとりとして、ぬくもりのある肌触りだった。
もしかしたら本当にいけるかもしれない。
そのとき。
アナウンスが流れ、シートベルト着用のサインが点灯した。いよいよだ。
イヤシの手をギュッと握りしめて、ギュッと目を閉じる。
恐怖はかなり薄らいでいた。

『当機は、臨空第九都市ターミナルへ無事着陸いたしました。シートベルトサインが消えるまでお待ちください』
着いた。
着いた。
着いたんだ。
無事なんだ。
左手で握ったイヤシの右手は少し、しおれている。自分の背中も汗でぐっしょり濡れていたけど、着いたんだ。
ブランケットからイヤシちゃんを取り出して抱きしめたい衝動に駆られが、ギリギリで踏みとどまった。
冷静に考えたら、それは超えてはいけないラインだと思う。
「こ、このボタン押せば縮むのか」
髪飾りの部分になっている黒いボタンを押すと、イヤシちゃんは元のクッションサイズに戻ってくれた。
よ、よかった。さすがにこの娘を連れて空港内を闊歩するほどの度胸はなかった。
イヤシちゃんを手荷物用のバッグへしまい、出口へ向かう。途中、座席にきたCAさんがいたから挨拶するとぎこちない笑顔で会釈を返された。
乗降口から飛行場内へ直結した通路を歩き、荷物を待った。
「お、桜くん」
後ろから声がした。
振り返るとそこには豊川が立っていた。
「やあ、やあ、待ってたよ」
手にアタッシュケースひとつを携えただけの身なりで佇む豊川は、機内にいたときよりも胡散臭い風貌にみえた。
「桜くんは、今日はどこかへ泊まるの? それともこっちが地元なの?」
「あ、いや、自分、これからいくところがあって」
「そっか、そっかそれじゃ、ちょっと行きつけの店にいこうよ。うん、少し話そう」
「え、いや」
「大丈夫だよ、奢ってあげるよ」
「お金っていうか、自分、遊んでるばあいじゃなくて」
「どこにいくの?」
「そ、その、守衛所って知ってますか?」
「ああ、第9守衛所にいくの」
「知ってるんすか!?」
「うん、ボクねそこのスカウトもやってるから」
「ほ、ホントっすか!」
こんな偶然があっていいんだろうか。
いきなり、スカウト枠を持ってる人に出会うなんて。
「そうそう、顔が利くんだよ。それならなおさら飲みに行こう。この時間から守衛所にいっても何も話進まないから」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えます」
「うん。それじゃいこうか」
豊川に連れられて、飛行場の無人タクシー乗り場へ出た。
自分の住んでいた街よりも、南に位置するが標高が少し高いせいか、気温は低いように感じる。
空を見上げると遠くの空に巨大な影がひとつ。
初めて、肉眼でみた。
あれが、上空都市エデル。
あの、真下に第9守衛所があるのだろう。
西に傾きかけた太陽がまもなくその巨大な都市の影に入ろうとしている。
雨はすっかり上がっていた。
それだけのことなのに嬉しかった。
初めての土地で神経が敏感になっているだけかもしれないが、気分が妙に高揚している。
「桜くん、イヤシちゃん、タクシーがきたよ」
豊川さんは丁寧にイヤシちゃんにまで呼びかけてくれた。
青空へ戻りはじめた空は清々しく、息を吸い込むと、雨に清められた風は澄んでいて、ここまであったことも洗い流してくれるようだった。
走り出した無人タクシーの車窓から景色を眺める。まるで街全体に歓迎されているような気分。
そうか、そういうことなのかもしれない。
うっすらと解釈しはじめていた。

なぜ、こんな大切な朝が雨ではじまったのか。



次回 11月17日掲載予定 
『 イヤシイ・ジェラシィ -1- 』へつづく


掲載情報はこちらから
@河内制作所twitterをフォローする