河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
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第29話『 イヤシイ・ジェラシィ -3- 』

チ、チクリンが捕まった……?
豊川さんは、じっとこちらへ顔を向けたまま動かない。
計られているような気分。
飛行機であったときの嫌な感じが蘇った。
忘れかけていた。得体のしれない深海魚。
「misa。チクリン 逮捕 ニュー……」
『いまさら? もっと早く気づいてあげなよ』
misaは脳内音声機能ダイレクトで返事をしてきた。
「は? オマエもしかして気づいてたの? それなら早くいえよ!」
『なにオマエって、酔ってんの?』
「いいから! 早く読み上げてよ」
『偉そうな口聞いてんじゃな──』
「桜くん。なかなかやりますねえ」
脳内の音声こえと豊川さんの声が重なった。気がつくと豊川さんがさっきよりもだいぶ近くに寄っていた。
「アシスタントプログラムもイイ感じに嗜まれるんですね。いまの脳内音声でしょ?」
し、しまった。声が出ていたらしい。misaの音声がダイレクトになっていたのが、不幸中の幸い……。
「そ、そんな会話なんてしてないですよ」
「謙遜しなくてもいいんじゃないですか。そうですか、そうですか。そうですよ。独り。己と己のためのメカニズム。利用すべきですよ。孤独を紛らわせるためのテクノロジー、それがカタルシスじゃないんですか」
「は、はあ……?」
相変わらず発言の真意がつかめない。
「ところで、ニュースみつかりました? ボクは動画みつけちゃいましたよ」
「ど、動画ですか?」
豊川さんがうなずき、指で長方形を描くと空中画面エアロビのスクリーンが1枚浮かび上がった。
「よく行く掲示板に落ちてました。結構出回ってるみたいですねえ」
スクリーンを覗き込むと、チクリンが走っていた。空港を。
空港を!?
え、と、ということ──
「あれぇ? これ、桜くんですか?」
遅かった。
そこには確かに自分の姿。めざとい人だ。
「そうだよね、こんなクラシカルなスーツ着てる人、いませんよねえ。もしかして友達って、チクリニックの店主?」
「は、は……い……」
「だから、あんなレアなの所持してたんですね、憎いなあ、もう。憎い」
「そ、そういえばチクリンはよく“デリカー”飲んでましたよ」
「え? デリカーですかぁ? ウチの?」
「はい。やっぱりトイレのポスター豊川さんの事務所なんですか?」
「そうですそうです。豊川個人事務所のいまのところ看板商品なんですよ。そのおかげで、ジャンパーやらTシャツ作って説明に行くはめになったんですけどね」
「チクリン、デリカーのTシャツ当てましたよ」
「え、あ、あれ、店主だったの?」
「景品がでねーってやけになって飲みまくってましたからね」
「そうかーなんだか、悪いことしたなあ」
「どういうことですか?」
「いやあ、実は、景品を欲しがる人なんていないだろうと思って用意してなかったんすよね。みんな途中であきらめるだろうなと。でも独りだけいくらスタンプ空打ちしてもあきらめない人がいたんで、焦ってTシャツをつくりましてね。そうか、あれが店主さんだったんですね」
「そ、そんな」
「いやあ、それでこうして桜くんに出会ったのは奇妙な縁ですよねえ」
口を開きかけたとき、いきなり叫び声がした。

『来んな! 行け!』

飛行場の通路でチクリンが転んだ瞬間だった。
あの場にいた誰かの視線映像EYE COMEか、通路の防犯記録セキュリティ・アイか。
画面の中でチクリンが叫ぶ。

『乳頭だよ! 乳頭! バッチリ仕込んでっからよ!』

自分の声は拾われていなかったようだ。
幼い頃から“蚊の泣くような声”と古くさい形容詞で揶揄されたことをこれほど幸運に感じたことはない。
「結構、お祭りみたいになってますね。『巨匠たいほー!!!!』って連呼しすぎて『巨匠大砲』ってよくわからない言葉まで生まれてますよ」
豊川さんのサングラスに映る映像の光がめまぐるしく点滅している。コメントの切り替わりが相当激しいのだろう。
覗き込むと、案の定コメントが踊り狂っていた。
それにしも、どんなに大量のコメントでも、目を引くコメントが必ず紛れているのはなぜなのだろうか。
『おら! 近づくんじゃねえ!』
チクリンは数人のトレンチコート集団に囲まれていた。
『うおりゃららららら!』
手裏剣のようにまき散らされるゴムのような物体。
<忍者かwwwwよwwww>
<店主 必死wwww>
ぶれぶれに飛んでくるフリスビーのようにゆらぎながら地面に着地すると、ムクムクと動き出した。
     < !? >
<……なに?……>
<来るよぉ!!!><ドゥクン……>
動画コメントはもはや読み取れないくらいの量が行き交っている。
『この俺様のバリケード、破れるもんなら破ってみやがれぇぇ!』
周囲に撒かれた物体、ぽこっ、ぽこっと立ち上がりはじめた。
『うぉぉぉぉぉぉぉ』
チクリンの咆哮をなぞるようにコメントが一瞬同調し、叫び声が書き込まれた。
『せいいいや』
立ち上がってきたのは、全裸のダッチワイフたちだ。イヤシちゃんに似てるが、みなそれぞれ表情や体型に個性がありどれも、乳首まわりはなまめかしい輝きを放っている。
<りょ、量産型!?>
<個性出し過ぎ>
<乳頭だけイイ仕事しすぎ>
<やべ、ちょっとチクリニック欲しくなるわ>
<罪上乗せかくていぃぃぃぃ 公然わいせつぅぅ!!!>
「あ、なに、あんなの見たことない。桜くんは? 知ってる?」
「い、いや、自分、チクリンの仕事にはあんまり感知してなかったので」
豊川さんは画面に見入っている。
『チクリニックの意地みせたるわーイケやぁー!』
<いや動かねえだろ!!!!>
ダッチワイフ、自走型じゃないだろ、チクリン。
コメントと自分の意見が同調するのは少し悔しいが同感だった。
チクリンが召喚したバリケード達は、ピクリとも動かない。
動くハズがない。
SP達は、プロだった。一時、様子をうかがいこそしたが、冷静に状況を見極め、無表情かつ無慈悲にダッチワイフ達を破裂させていった。
「あ、あ、あ、あだめだよ、だめ」
おもちゃを取り上げられる子供のように、豊川さんは足をばたつかせた。
『やめろぉおい! くんなよ、く』
チクリンが地面に横倒しにされ上から取り押さえられた。
<店主! いったぁーーーーー>
<巨匠大砲><巨匠大砲><巨匠大砲>
あとは、<巨匠大砲>の連弾が続いていた。

「けしからんよ!」
豊川さんが、テーブルを叩く。
確かに、この人にとっては、衝撃的なシーンだろう。
「なんてことを。宝だぞ! あの人は宝だ!」
ついには、スクリーンの左右を掴むようにして揺らしはじめた。器用なことをするなこの人。
「ねえ、みてよ! 桜くん! このコメントもふざけてる」
豊川さんは、映像内に表示されているユーザーコメントを指さした。
逮捕後はチクリンが散々に揶揄されていた。
「彼ほどの天才が捕まってるっていうのに、なんなの? これ」
天才なのか。あの男。
「どいつもこいつも、人を小馬鹿にし……て……え?! え……え?!」
豊川さんが急に動きを止めて、親指を噛んだ。
「うそ! うそ? チクリニック 通販」
あるコメントを凝視しなが検索ワードらしきことを口走る。
コメントを覗いてみると<おまえら急げ あのダッチワイフまだ売ってるぞ>とあった。
「まずい、まずい、まず……あああああ、うそだろぉ早いよぉ」
「ど、どうしたんですか……」
「チクリニックの提携サイトで、イヤシちゃん買えたらしいんだけど、売り切れちゃったよーなんだよー、散々叩いといてーやっぱりみんな買うんだもんなぁーずるいよー」
チクリン、もしかしてはじめから騒ぎを起こして売りつけるの狙ってたんじゃないか。捕まったら元も子もないだろうに。
「あーあーあー、欲しいよぉ、イヤシちゃん」
この人には、だいぶ効果があるみたいだけど。豊川さんはついに、ソファに上にうつぶせになり体を揺らしはじめた。むずがる、赤子のようだ。いや、成人男性の体型である。それよりもたちが悪い。
「あらあらあらー、どうしたのー?」
ママが席に戻ってきた。
「イヤシちゃんーイヤシちゃん」
「はいはい。ねえ豊川さん、一服でもして落ち着いてみたらどう?」
「う。うん。でもタバコないの」
ママはこちらに目配せしてきた。
「豊川さん、たまにだだっ子みたいになるのよ。普段は大人ぶってるのにね」
「は、はあ」
ママはまるで子育てを一通りすませたことがあるみたいに、慣れた手つきで豊川さんをあやしている。こんなに若いのになんて経験豊富なんだろう。本当に“ママ”のようだった。
「ねえ、桜くん。悪いんだけど、タバコ買ってきてくれないかなぁ」
「た、タバコなんて売ってるんですか?」
「あるわよー、お店をでてー、アーケードに戻って左の突き当たりにスーパー熊野さんがあるからー、お願いできないかなー」
「わかりました!」
正直、この場を離れたかった。
立ち上がって入口へ向かうと、マナさんがドアを開けて待ってくれていた。
「いってらっしゃい。ごめんねー」
会釈を返して外へでる。
喧噪がいっきに引いて、耳鳴りが聞こえるほど静寂を感じた。
相変わらず薄暗い通路だった。
ひと息呼吸を整えて、狭い階段を降りようとすると、階下の入口から、不気味な音がした。
チッカチチッカ、チッカチッカ……、と裏打ちしきれない、タンバリンのような独特で乗り切れないリズム、さらに鼻歌のようなものも混じっている。
おそるおそる、階段を覗き込んでみると、人影がみえ……、え、人影が浮いていた。
階段に足をかけず、ふわっと上昇してくる。
狭い通路いっぱいに膨らんだ巨体だった。
いや、“物体”なのか……?
やばい、
やばい。
やばい!
みえちゃっ──
「ぎゃああ」
「ぎゃああ」
向こうが突然大声をあげてきたから、こっちも思わず叫んだ。
に、人間なのか?
「ご、ごめんさいいいい」
浮かんでいた人影は、ドスンと音をたて地面に降り、今度は「痛いっ」と叫んだ。
痛覚がある。大丈夫、人間だ。生のある人間だ。大丈夫だ。大丈夫だ。きっと。
影を凝視すると影は坊主頭の男、丸々と膨らんだ体型だった。
「ジャマしてごめんなさい!」
勢いよく頭を下げて、道を譲ってくれた。謝っているようだが無視して階段を駆け下りた。

びっくりしたなあ、急に人が出てくるんだもん。足が痛くなっちゃったよ。
なんであんなに急いでたんだろう。お腹でも痛かったのかな、ママの店でトイレ借りればいいのに。
着地で痛くなった右足をかばいながら階段を昇るとマナちゃんがドアを開けてたっていた。
「あ! あらー? まもるさん。いらっしゃーい」
「あれ? マナちゃん! もしかしてボクが来るの待っててくれたのー?」
「え、え? そ、そうですよぉー」
「ママはいますか?」
お店の中から「やだー、やだー」と声が聞こえた。もしかして、怖い人でも来ているのかな。
「あ、あのママ今すこーし取り込み中でーす」
「で、でもボク、相談があってきたんです!」
「そ、そうだん?」
「はい! たけしさんが急に、守衛所に戻れっていいだしたんです。ボクは嫌だっていったら、ママにも相談してみろって」
「そ、そうなのー……え、えっと」
マナちゃんがお店の中をみた。
ボクの声が聞こえたのかな。
お店の中が静かになって、すぐにママが出てきてくれた。
「まもるくーん。来てくれてありがとー」
「ママ! 相談にのってください!」
「いいわよー。それじゃーこっちに座ってー」
ママは、なぜかお札の束を着物の帯びに押し込みながら手をひいてくれた。
ひんやりとして、すべすべしてる白い手が気持ちいい。
連れていかれたいつものボックス席には、男の人がいた。
「まもるくん、今日は相席でもいいー? こちらの豊川さんもまもるくんのお話聞きたいんだってー」
「どうも、どうも、お久しぶりです。上から読んでも下から読んでも豊川豊です」
「あ、はい! え……誰ですか?」
「前に1度、まもるさんが、辞表を書いている時にお会いしましたよね」
「そうなんですか? あの時、ボク一生懸命、ジヒョウ書いてたから……ごめんなさい」
「気にしないでください。それよりも、聞こえちゃったんですが、たけしさんに追い出されたんですか?」
「追い出されたんですか? ボク」
「守衛所に戻れって、急にでしょ? 追い出されてるでしょ? それ」
「そ、そうなんですか! だって、たけしさんが急にいいだしたんですよ。それでママにも相談してみろっ、て……」
ボクは、たけしさんの仕事のことや奥さんと空を飛んだ話を2人に教えた。
「きっと、それヤキモチなんじゃなーい? まもるくんがデキる男だからよー。でも、ちょっとひどいわねーたけしさん」
「やっぱり、ひどいですよね!」
「あんなに、まもるくんに守衛所のお仕事辞めさせようとしてたのにねー」
「それで、まもるさん、守衛所ではどんなことなされてたんですか?」
「ボクですか? ボク、人事担当部長してました!」
豊川という人が少し嬉しそうに笑ってくれたようにみえた。
「それ、すごいじゃないですか。人事してたのならなおさら、実はですね、少しだけお願いがあるんですよ」
「お願いですか?」
「はい。じつは守衛所に入りたいという若者がいまして、ぜひまもるさんにお力添え頂きたいんです」
「で、でも、ボク……、守衛所にジヒョウ出してるし……」
「その辺たけしさんなんていってました?」
豊川にたけしさんの言っていたことを説明すると、頷きながら聞いてくれた。
「はい。それは、正しいですね。正解です。男気のある上司なら、まずクビにしませんね。いったんは時間空けて猶予を持ちますね、間違いなく。うん。間違いない」
「そうよーまもるくん。熊野さんでしょ? あの人なら人情あるとおもうなー」
「そ、そうですよね! ママがいうならボク、信じます!」
「やだーカワイイなぁー。まもるくんのそういうところ、好きよー」
「ありがとうございます!」
「それじゃあ、お願いしますね、人事担当部長殿」
豊川さんがお酒をついでくれた。
「わかりました! ボク、力になりますよ!」
「もうすぐその若者が戻ってくるので、待っててください。紹介しますから。それまで……1曲、歌いますか?」
「あ、あ、ボク、唄えないんで……、えっと……、ここで飛んでます!」

扉をあけると、悪夢のような、いや、脈略のない奇怪な夢のような光景が広がっていた。
理解しようと、いや、理解しようとしてはいけない。
その行為を試みるだけで精神がむしばまれる気がする。
『スナック満』の店内には、ママとべったりと肩を組んで熱唱する豊川さんと、その周りをプカプカ飛び回る老人がいた。
あれは、さっき階段ですれ違った不審者じゃないか?
右手でベルトを小刻みにいじりながら、リズムに合わせて浮き沈みを繰り返している。
やはり、ヤバイんじゃないだろうか。
このまま、タバコを投げつけてすぐさま逃げた方がいいのかもしれない。大人の世界は、まだ自分には早かったのだ。
しかし、予想を遥かに上回る出費をしていた。まさかあんなにタバコが高いとは。
この代金だけは請求しなければならない……。
豊川さんの歌声は朗々と響く、曲中の“AH”とか“wow”も手を抜かずに歌うひとなんだなと場違いな感心を持った。
マナちゃんは“エアタンバリン”で手を揺らしシャカパンシャカパンとビートを刻む。
結局、迷った挙げ句、1曲の演奏が途切れるのをまって店内に足を踏み入れた。
静かになった店内にママの声が響く。
「あらー、桜くんおかえりなさーい」
「い、いってきまし──」
「ママ、ママ、ボクのホバーベルトどうでした?」
なんだ、このデブ。話に割り込んでくる老人に急にいらだった。
「まもるくんすごかったわよー」
話に割り込んできた老人は、照れながらベルトに手を掛けて、座ったまま浮上した。
「ちょっと、まもるくん、ホントにすごいじゃない」
「そうですか?」
「天才なんじゃないホントに」
「ボク、なーんか自然にできちゃうんですよねー」
だらしなく笑いフワフワ浮かんでいる坊主頭の老人と、岩のりのようなロングヘアの中年に囲まれても動じないママの胆力には、もはや恐れを感じた。
「桜くん、おそいよ-」
豊川さんは、さっきよりも上機嫌でグラスを持っていた。
「あ、こ、これでいいすか? タバコ」
「ありがとー、ごめんねー」
ママがタバコを受け取った。「お金ください」といえなかった。美人だ。この人。
「桜くん、こちらね、まもるさん」
唐突に豊川さんが坊主頭の老人を手で示した。
「知井守です!」
ソファから浮かんだまま坊主頭を下げた。顔が赤い。すでに酔っているようだ。
「まもるさん、こちらハルノキくん。桜って書いてハルノキって読むらしいですよ」
見知らぬ浮遊老人をいきなり紹介され、どうしていいかわからずとりあえず頭をさげた。
「桜くん。すごいですねえキミは。持ってる」
「な、なんすか?」
「運命的な出会いなんですよ、これは。ボクとイヤシちゃんが出会ったみたいな」
まだイヤシちゃんの話を引きずってくるかあ。この人。
「まもるさんはね、守衛所の人事担当部長なんですよ」
「え、え、え? え! ほ、ホントすか!?」
「うん。ジヒョウを出したんだけど、熊野さんがきっと止めてくれてるから」
「それでね、まもるさん。さっき話した通り、この桜くんに協力して欲しいんですよ。未来ある若者に」
豊川さんがさりげなく、まもるさんのグラスに酒を注ぎながらいった。
「いいよ! 桜くんのこと紹介してあげるよ、守衛所に。任せといてよ! ボク人事担当部長だから!」
「す、すげえ」
「それでね、桜くん」
グラスを脇によせ、豊川さんが座り直した。
「まずさあ、真剣に守衛所に受かりたいなら履歴書が必要だと思うんですよ」
「やっぱり……そうですかね」
「ねえ? まもるさん」
「うん。正規の履歴書じゃないと受からないです」
「うわーそれじゃやっぱり落ちてんじゃん」
「それからアレだ、心付けも必要ですよね」
「はい。必要です!」
「うわ、ですよねー、俺、入れようっていったんすよー失敗したー」
「いくらでしたっけね? まもるさん」
「5万円が最低です。吉原さんって人が、それでギリギリでした」
「5万っすか!? だって履歴書が12万ですよね? そんな金ないっすよー。うわーダメかーやっぱり」
「慌てなくてもいい。履歴書をつくってるのは、うちの会社だからね。そんなのいくらでも手に入る」
豊川さんが空中を人撫でるすと、“エアロビ”スクリーンが1枚現れた。
「これがT.Y.P.Cの履歴書データなんですけどね。みてくださいよココ」
指で示された履歴書の右下には、小さく『T.Y.P.C(正規品)』とあった。
「ボクはね、若い人を応援したいんです。ですから、この履歴書と心付けの分の料金を負担したらどうかなと」
「そんな……なんか怖いっす」
「大丈夫。大丈夫。もちろん見返りは要求しますんで。単刀直入にいっちゃうと、この条件でイヤシちゃんと交換してくれませんかねって話なんですよ」
豊川さんは、まっすぐに、1ミリも左右にぶれずまっすぐに正面をみて静かにいいはなった。
「これ破格のオファーだと思うんですよね。桜くんにしてみたら。今日知り合ったばかりのダッチワイフと、将来に広がる守衛所ライフと、どちらがより有意義なのかっていう話なんだと思うんですよ」
「そ、それは……」
チクリンの逮捕の瞬間が蘇った。
「チクリニックの店主さんのことはね、もちろんわかりますよ。それも含めてね、イヤシちゃんの保存状態や使用していくうえでのケアとかやっぱり慣れている人間の方が、末永く彼の作品を保っていけるとおもうんですよ。ですから……」
豊川さんは、突然、床にひざまずき土下座をはじめた。
綺麗な、一点の曇りもなく折り目正しい、見本のような土下座だった。
「お願いします!」
「や、やめてくださいよ」
「イヤシちゃんをボクにください! 幸せにしますからぁ!」
こ、こんな、厳格な父親に結婚を迫るような、もしくは何回断られてもプロポーズを繰り返すようなシーン、ドラマでしか、いやドラマでもほとんど観たことがない。
なにしてんだ、この人。
「お願いします。お願いします。お願いします!」
しかし、豊川さんの声はドンドン大きくなる。
「お願いしますぅ!!」
胸が苦しい。良心が、傷んだ。
「わ、わかりました。わかりました! 交換しましょう」
「ありがとう! ありがとう。桜くん」
しっかりと両手を握られた。
手に触れた豊川さんの髪の毛はごわごわとやはり海藻のような感触だった。

「じゃあ、これ」
差し出したイヤシちゃんを、まるで野生動物のような俊敏さで豊川さんは受け取った。
「うわー、イヤシちゃん! よろしくね、よろしく、よろしく!」
がっちりと胸元に畳んだままのイヤシちゃんを抱きかかえている。
「あ、あの、じゃあ、り、履歴書、いいっすか」
「あ、ああそうだね、そうそう。ママぁ、これ印刷してくれない? お店にプリンターまだあったよねぇ」
「しょうがないなぁー、マナちゃーん。豊川さんのデータ印刷してあげてー」
カウンターの奥から「はーい」と返事が聞こえ、少し間をおいて1枚の紙を持って出てきた。
「これでいいですかー?」
「ああ、うん。いいよいいよ、じゃあこれね桜くん」
手渡されたぺらぺらの紙。これで、12万円か。
「まもるさん、そういえば履歴書の書き方のコツとかあるんですか? あれ? まもるさん?」
まもるさんは、いつのまにか天井にへばりつくように浮かんでいた。
「へぇ? ん、あれ、ちょっと寝ちゃったのかな、ごめんなさい」
ゆっくりとソファに降りてきた。たちの悪いメリーゴーランドのような人だ。
「履歴書、手に入ったんですけど、どんな風に書けばいいっすかね」
「書き方はね、うーん、おもしろい事をとにかく膨らませて書けばいいんだよ」
「おもしろいこと……です……か?」
「そうそう……」
グラスに残った氷をガリガリとほおばりながらまもるさんは答えた。
「桜くんは、そうだなー趣味とかあるぅ?」
「競馬ですかね」
「じゃあ、そういうことを書くといいよ……それから、生い立ちとか、失恋したエピ―ソードとか」
「マジですか? それ」
「うん。履歴書ってほら、その人の半生を綴るようなものだから。平凡な学歴とか書いてると間違いなく落ちちゃうよ」
今すぐ、今すぐ、今すぐ! に山野を殴りに帰りたいと強く思った。
あのジジイ。余計なことしやがって。なんのためのアドバイスだ。
「それじゃあさ、書いてみようよ。ボク眠くなってきちゃったから、頑張ろう」
「は、はい!」

それから、まもるさんのアドバイスを受けつつ書き進め、履歴書は1時間ほどで仕上がった。



次回 12月 8日掲載予定 
第30話『 ニュー・トリップ -1- 人事の珍事 』へつづく

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