河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
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第95話『 ターニングポイント 』

「パークさん、これで最後です!」
「おぅ」
差しだされたPARKを受け取り、パークさんは垂直にペンを立て一瞬目を閉じた。
「ぬぅん!」
見開かれた眼と共にもはや聞き慣れたキッカキカ音がブルーシートの中で踊りだす。
「うぅん! ぱぁっ! ぐぅ!」
力強く刻まれる“PARK”の文字。
「だはっ! はぁ、はぁ、はぁっ……」
そんなに、息切れするほどの運動量には見えないのに、パークさんの肩が激しく上下する。
「…だだだだだっ!」
「あ、猫……」
謎の猫が、最後の箱に描き添えられる。さっきの猫とはポーズが違う。
「ふぅ……」
静かにペンが止まった。
「お疲れ様ですっ!」
すかさず、まもるさんが黄ばんだタオルを差し出す。
「まもる、アレだ」
「はいっ! ただいま!」
まもるさんが、せかせかと半分だけの和箪笥に走り中から薄汚れたグラス取り出してベニヤ板の上に置いた。
「おまえもいいぞ」
「ありがとうございます!」
グラスになみなみと注がれる琥珀色の液体。
「オン ザ リバーな」
「はいっ!」
白いポリタンクから注がれる、水。
それ、さっき、川で汲んできた……。
「オメェも飲むか?」
「い、いえ自分は仕事中なので」
丁重に断ろう。命に関わる。
「くぁっー、しみる!」
パークさんはご機嫌な様子でグラスを揺らす。
「あ、あの、パークさん」
「どうしたぁ! 若いのぉ!」
酔いはじめているからだろうか、声がでかい。
「そ、それ、か、か、川の水ですよね?」
「ん? ああ」
「の、飲んで、大丈夫なんですか?」
「オレァ、この街に住んでんだぞ! この街の恵み、川の水を飲むのは当然だろ!」
い、いや……そういうことなのか……いや、ダメだろう……。この人にこれ以上関わらないほうがいいんじゃないか。
「じ、自分そろそろ店に戻ります……」
「なんだ! もうか? まあ若いのは若いので仕事だもんなぁ。おい! まもる! お会計!」
「はぁーい!」
拳ひとつ飲み込んでしまいそうなほどの大口をあけて声を張り上げたまもるさんがすり寄ってきて物乞いのように、手を差しだす。
「は、はい」
代金を差しだした瞬間、ひったくるように掠め取っていき、こちらに背を向けて数えはじめた。
「若いのぉ! これからも棚田のトコからじゃんじゃんPARKの注文とってこいよぉ!」
布団の上に陣取ったパークさんは頬が赤らみはじめていた。
「は、はい……善処いたします……」
「なんだ! 役人みてえだな! ガハハハ」
こんなインチキタバコを吸う客がどれほどいるというのだろうか。
「パークさん、お会計いただきましたぁ!」
「うむ。若いの、これやるよ」
パークさんがそっと両手を握ってきた。手の中にくしゃっとした紙の感触。
「えっ……なんすか……あれ、これ」
最後に猫を描いたPARKの箱だった。
「ひと箱余分につくっといた。持ってけ」
「や、自分、吸わないんで」
「いいって! オメェも試してみろっ、なっ、なっ? カートン買ってくれたし、サービスでライターも1個つけっからよぉ」
プラスチックの安っぽいライターも右手にねじ込んでくる。なんだ、この、路地裏で怪しい包みを握らされているような感じ、例えでも何でもなく、そのまんまの不穏なシチュエーションは。
「ハルノキくん。パークさんの御好意が受け取れないの!」
まもるさんもロッカを飲み始めていた。
「今回のロットは上物だぞ、おい! 昨日仕入れたやつも混ざってっから」
これ以上酔っ払い2人に絡まれると面倒だ。
黙って受け取りジャケットの内ポケットにPARKとライターを放り込んだ。
まあ、考えてみれば、これでタバコを買ったことにできるじゃないか。
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「おう! あ、そういえば、店にいる美人バーテンダーにもよろしく伝えてくれ」
誰だそれ。まあいいや。
「わ、わかりました」
怪しげなタバコを手にブルーシートハウスから退散した。

「僕は、決めました」
真一文字に引き締まった豊川の口元は下唇が上唇に食い込んでいる。
「チブサーを自称する僕は、今日をもって新たなチブサーライフのステージに入るんです。この店に来たのが全ての始まり。そう、ここが今後の人生における大きな分岐点になるんです!」
なにをいっているんだこの人。
「そ、それが店を買い取るのとどんな関係があるんですか?」
「このターニングポイントを忘れないよう、この店の跡地に、豊川豊chibusa記念館を建てることにします」
ど、どっちの記念館!? ていうか、もう潰す前提じゃん!
「棚田さん。こちらに売却金額を入力してください」
豊川が空中にエアロディスプレイを浮かべた。
デジタル小切手が表示されている。
「そ、そんな急に」
「適当に0を並べてもらってかまいません」
本気だ。この人。
完全に腹をくくってる。
なんてことしてくれたんだよ、ナンプラぁ。
「ダメなの?!」
「ダ、ダメです」
「…………」
豊川が立ち上がり、ゆらゆらしながらこちらへ向かってきた。
流れるような動作で胸元に右手が滑り込む。も、もしかして、銃とか持っているんじゃ……。まさか。でもこの人なら……なにがとびだしてもおかしくはない。 
僕、今度こそ、THE ENDじゃないか。
祈る間もなく、豊川の右手がスッとジャケットから飛び出る──
手元には──
白い液体の入った瓶。
先端には柔らかそうな素材でできた先端の尖ったキャップ。あ、あれは、ほ、哺乳瓶!?
チュピュン
豊川がフルマラソンの給水ポイントに辿り着いたランナーのような勢いで先端に吸い付く。
「と、豊川さん?」
「まって、ミルクの時間」
チュピュンチュピュチュピュチュピュチュピュチュピュチュピュチュピュ
砂漠の砂が雨水を吸い込むように瓶の中の白い液体が豊川に染みこんでいく。
「あ、あの……」
白い液体をみるみると豊川が吸収しつくし、瓶はあっという間に干上がった。
豊川が口元に残った白い筋を左手の甲で拭う。
「この哺乳瓶についている乳首は、chibusaバウンススタジオが出しているchibusaさんの作品中の乳頭をレプリカした乳首です。chibusaさんの作品において、乳頭がそのまま表現されることは意外にも少ない。数少ない乳頭が確認できる作品かつ最高の乳頭が描かれている作品『G曲線上の女神』のレプリカ。これほどまでに僕の生活にchibusaさんは溶け込んでいるんだ!」
求めてもいない、興味もわかない解説を語るこの人の眼差しは一体どこへ向いているのだろうか。いや、そもそも人としてどこへ向かっているのだろうか。漆黒のサングラスはその視線を巧みに隠しなにも読み取ることができない。
いや。
そんなことはどうでもいい。少なくともこの人をこの店とチーちゃんから遠ざける方向へ押しやらなけきゃいけない。
……いや、ムリだよ。この人……どうしよう。

時刻はAM11:15。PARKを待っている間にだいぶ時間が過ぎてしまった。chibusaさんが退屈して変なことをはじめているかもしれない。
自動ドアが音もたてずに開く。
いくら外観が古びているとはいえ、さすがにHOT TOK PLACEもエアコンは効いている。身体を包む冷たい空気が心地いい。フロントにいるのは昨日の老人とは別の男だが、やはり小さな声でお帰りなさいといっただけで過剰な干渉はしてこない。
ということは少なくともchibusaさんはおとなしく待ってくれているのだろう。
「す、すみません」
声をかけるとフロントの男は静かに顔を上げ小さく返事をした。
「コージさんとchibusaさん、まだこの中にいますか?」
「コージさんは喫茶室に」
お茶してるということか。chibusaさんの所在が気になるところだがまずコージさんと合流しておこう。お礼をいって荷物を抱え喫茶室に近づいていくと、コージさんの話し声が聞こえてきた。相手は、chibusaさんではなく、ぼそぼそとした男の声。
「だからよぉ、そこをなんとかねじ込んでくのがオマエの腕の見せ所だろう?」
この声は確か、ロウリュのときにタオルを振り回していたナンプラという男。
「は、はっぁ……」
コージさんが目の前のテーブルへ置かれたアイスコーヒーのグラスに挨拶するような角度で頷くのが見えた。アイスコーヒーの氷がカランと小さな音をたてストローの先が少し動く。
「男はな、ときとしてムリを承知で向かっていくことも必要だろ。相手の目をみて、お願いしますって頼むんだ」
「わ、わかりましたっぁ」
「オメエもヤリたくてうずうずしてんだろ? それなら答えはひとつしかねえ。当たって砕けろ。殻を打ち破れ。いざとなったらな、勢いだ。土下座しながらやらせてください!って真心を振り絞れ!」
「はっぁい! 全力を尽くしまっぁっす!」
場末の居酒屋で繰り広げられる先輩から後輩への無責任な恋愛指南のような下世話な会話。割って入るのを少し躊躇ったが、立ち聞きしていたのがバレないように声をかけた。
「ハルノキさっぁん! お疲れ様でっぇす!」
陽気なコージさんの声。喫茶室は相変わらず人の気配がない。こんな静かなところであんな下世話な話をしていいものなのだろうか。
「お待たせしました。あ、あの、chibusaさんは……」
「出掛ける準備をなされてまっぁす」
「え、だ、だって、あれから随分時間たってますよ?」
ロウリュの後、トックトックで買い物をして公園でPARKができあがるのをまっていただけで数時間は経っているのに。
「わかってねえな。小僧」
左側の席に座るナンプラが鼻で嗤うように顔をしかめた。
「レディの準備には時間がかかるもんだぜ」
「そうでっぇす! chibusaさんはそれでなくても街を歩くだけで注目の的でっぇす! 身だしなみには時間がかかるはずでっぇす!」
「そ、そういうものなんですか」
「オレも昔の女たちには随分と待たされたもんだ」
そういいながらナンプラが太い指にタバコを挟んだ。ほどなく現れた銀色のライターがカキンと音をたて炎があがる。
「でも、それに腹をたてちゃいけねえ」
ナンプラが煙を吐き出すと顔の周りを包んでいた煙が周囲に散った。
「女が男に最高の自分を魅せるための時間なんだからな」
煙の間から現れた上目遣いのおっさん。
よくみると髭にまで白髪が交じっている。
な、なにをいってるんだこの人。
「さすがでっぇす! ナンプラーさっぁん! 勉強になりまっぁす!」
コージさんはしきりに頷きながらナンプラをみつめている。
「コージ。勢いだけでがつがつしてる男には色気がねえぞ」
さ、さっき、勢いが全てみたいなことをいっていなかったか……この人。
「だから……おっと……レディの到着だ」
ナンプラは椅子にもたれたまま、タバコでコージさんの背後を示した。
振り返ると、chibusaさんが昨日とは違う色のサマードレス姿でたっていた。今日は、赤と黒。胸元は惜しげも無く開いている。
「おまたせ……あら、ナンプラさんもいたの」
「覚えてていてくれましたか。これは光栄だ」
芝居がかった言い回しでナンプラが灰皿にタバコを置いて立ち上がる。ふ、副流煙がこっちにくるじゃないか。
「さあ、こちらへ」
しかしナンプラは煙には目もくれず、chibusaさんの背後に回って椅子を引いた。
「ありがとう」
chibusaさんは小さく一礼して椅子に座る。
な、なんだ、この、映画のようなやりとりは。あの男、まるでパーティー会場で立ち回る紳士のようじゃないか。
「あらハルノキくん。おかえりなさい」
でもchibusaさんは変わりなく屈託のない笑顔で迎えてくれた。なぜか、少し嬉しくなった。
「すみません! お待たせしてしまって」
「別に構わないわ。着替えしてただけだから」
「大丈夫でっぇす! 女性の着替えには時間がかかりますからっぁ!」
「フフ、小僧。デリカシィがないことを大声でいうもんじゃないよ」
ナンプラの声がさらに低くなっていく。
「似合うなぁ。そのドレス……」
目を細めたナンプラが呟いた。
「そう? 今日は赤の気分だったのよ」
「chibusaさんはっぁ! 何をきても似合いまっぁ……」
「今日のchibusaさんには、その紅がピッタリだ。素晴らしい」
コージさんの声を遮りナンプラが言い放つ。
「お上手ね」
小悪魔のような顔でchibusaさんが微笑み、胸元からタバコを取り出した。
「あたしも吸っていいかしら?」
「もちろん」
ナンプラが頷くのを確認してchibusaさんが細いタバコを咥える。
「あら、ライター忘れてきたみたい」
chibusaさんが胸の谷間を覗き込む。
「火、ある?」
突然、顔をあげる。
「ひ、火ですか! じ、自分、吸わないので」
いや、まてよ。
持ってるじゃないか!
「あ、あります! あるっす!」
胸ポケットにしまっておいたライターを取り出して、丸い部品を擦る。
「あ、あれ?」
つるつる滑って火がつかない。なんだこれ。
ここを擦れば火がつくんじゃないのか。
「あ、あれ、あれ?」
むなしく空回りする丸い部品の上を、カキンと音を放つ光が横切った。
「よかったら」
な、ナンプラがライターを差しだしていた。
「あら、ありがとう」
chibusaさんが火を手元に引き寄せタバコへ火をつけた。て、手がそっと重なっている!
「いい音ね」
「ハハハ、ガキの頃から愛用してるんです」
そういってナンプラがライターの蓋を閉じ立ち上がる。
「あら? どちらへ?」
chibusaさんが目で追うようにナンプラの顔を見上げた。
「そろそろ自宅へ戻ります。まあ、また夕方には戻ってきますがね、ハハハ」
「お忙しいのね」
「まあ、今夜からはオレもこのビルの住人になるかもしれませんがね」
そういって、コージさんの方へ目配せをした。
「は、はっぁい!」
なぜかコージさんが力強く頷く。
「そのときには、どうぞよろしくしてやってください」
一礼してナンプラが去っていった。
Tシャツに短パンの後ろ姿なのに、なぜかダブルのサイドベンツスーツを身に纏った紳士の背中にみえた。
「あの人、ラジオとはだいぶ印象が違うわね」
「ら、ラジオってなんですか?」
「今日は記念すべき日でっぇす! ナンプラ先生がchibusaさんのことを大々的にっぃ番組で取り上げたんでっぇす!」
コージさんは熱に浮かされた子供のような顔をしていた。
「アタシのことっていうか、昔のこと話してただけじゃない」
「で、でもっぉ、わ、わたくしもっぉ、あのゲームはプレイしていましたがっぁ、た、大変恥ずかしながらっぁ、chibusaさんが携わっていたとは知らなかったのでっぇす!」
「済んだ話に興味ないわ」
「で、ですがっぁ……」
「……まあ、少しだけ、昔のこと思い出しちゃったけどね……」
そういって細い煙を吹いたchibusaさんの視線が空中を漂う煙の先を追いかけるように、ぼんやりと動いていた。

近い。
近い、近い、近い。
豊川が僕の隣に座ったまま動かない。
膝と膝がつくくらいピタリと僕の隣に距離をつめ、こちらをみつめている。
なに? この距離感!
無音の室内に放送を終えたラジオが放つ小さなノイズが漂っている。
パーソナルエリアに危険な人物が入り込んでいるせいだろうか。耳や鼻、すべての感覚が鋭敏になっているみたい。
ラジオは従業員の空き時間で放送してるから、このあと夕方の開店前までなにも番組はない。いまさら音楽をかけるわけにもいかない。でも無音でこの距離感は気まずい。
「僕はどうしてもこのお店を売って欲しい」
何度目のオファーだろう。視野内の時計をチラ見すると、AM12:00にさしかかろうとしていた。睡眠時間がどんどん削られていく。
「と、豊川さん。少々、離れていただけないですか?」
「僕はもっと、お近づきになりたい」
もう、迷惑だよぉ。
「と、とにかく店は売れませんよ」
「なんでぇ!?」
「こ、この店に来るのを楽しみにしているお客様が大勢いらっしゃいますし、昨夜一緒にお見えになられた渋井様も常連様ですから」
「支部長? 彼、ヒップ派だから。あんなミーハーなチブサーと一緒にしないで欲しい。僕はチブサーでいったらガチ勢! だから、どうしてもこの店に爪痕を残したいの!」
「そ、そんな堂々と宣戦布告みたいなことおっしゃられても……」
「争いごとは嫌いだよ。おっぱい主義者は平和的だから。お金で解決しようと思ってるんだ」
このままいくら押し問答をしても、この人が諦めるという選択肢をとる可能性は低いよねぇ。それなら、最低限の犠牲で収めるしかないかぁ……
「それでは、せ、せめてですが、このお店のスポンサーになっていただくというので折り合いをつけませんか?」
「スポンサー?」
「今月の末日に大きなダンスイベントがあるんですが、その大会を大々的にバックアップしていただくというのは……」
「ダンス?」
豊川が振り上げた両手が動きを緩めた。
まるで“why?”と問いかけるような形のまま静止している。
「僕、踊らないし……」
「もちろん豊川さんは主催者ですから、VIPルームでどどどどんと高見の見物をしてもらえればそれでいいんです。そ、それから、た、たとえば爪痕を残すというなら、豊川さんのお名前を冠した大会にするとかならまだ間に合いますし」
「えぇ? 豊川豊ダンス大会? 色気がないね。chibusaさんの名前も追加して、豊川豊杯争奪スペシャルダンスコンテストchibusa記念ってのはどうかな」
「……す、素敵ですね」
「うん、まぁ、それなら、ちょっと考えてもいいかな」
あとで、チーちゃんに土下座だなぁ。絶対に怒るよねぇ。
「そうか、ダンスかぁ。僕、ダンスは童貞だからちょっとちゃんと練習しなきゃだな」
「さ、参加なされるんですか」
「だめかな?」
「も、もちろん参加していただいても構わいません!」
面倒くさいなぁもう、この人。
「主催者としてchibusaさんと踊ろうと思う。なんていうんだっけあの情熱的なやつ、タンゴとかジルバってやつとか……いいね。chibusaさんと踊ること想像するとみなぎってくるね」
「と、とっても素敵な企画じゃないですか」
どうしよう。チーちゃんに抹殺される。
「わかった。そうしよう。僕ねダンス大会のスポンサーやる。豊川豊グループの総力を結集しちゃう!」
よかったんだよね? ねえ、自分? 今かなりの岐路に立っている気がするけど。どっちを選んでも罰ゲームみたいな結果だもん。しょうがないよね? いまはこの場をやり過ごすしかなかったよね?
「それじゃ、さっそく練習はじめようかな」
「ぇ?」
「あと3週間そこらじゃない? そうなってくるとさ、リズムトレーニングからみっちりはじめないと勝てないよね?」
「そ、そんな本気になられなくてもいいのではないですか?」
「chibusaさんに恥かかせられないじゃない」
「え、えっと、そ、そうですね」
「間に合うかなぁ、今夜からこのお店貸し切りにできる?」
「それはちょっと……」
「だって僕、DDT、ダンス童貞だよ? ちゃんと手順、教えてもらわないとなにもできないんだよ?」
「わ、わかりました。とっておきの方法があります! 当店の特別レッスンプログラムを使えるVR部屋ルームを御用意いたします」
「VRで練習? ダンスを? それはちょっとさぁ、なんていうか、VR空手習うようなもんじゃない」
「大丈夫です。その部屋は特別ですから!」
これしかない。
棚田。自分を信じるんだ。
“TMR”を使うしかないじゃない。
まさか、あの扉をあけることになるとは。
……まあいいか、この人ならどうなっても。
問題はチーちゃんを逆に巻き込んでしまったことなんだ。

何度か架け直し、やっと棚田さんがVOICEに応答してくれた。
「ハルノキくん! どう? PARK買えた?」
聞こえてきた棚田さんの声は妙に弾んでいた。
「はい。ツーカートン揃いました」
「よかった。こっちもなんとかなったよ」
「本当ですか!?」
あの豊川が引き下がったのだろうか。
「もうチーちゃん連れてきて平気だよ」
「……あ、じ、実はそのことなんですが……、chibusaさん、急に部屋に戻ってしまって……」
「ど、どうして? なにかあった?」
「いや、特に変わったことはなかったとおもうんですけど……」
HOT TOK PLACEに到着してからのことを棚田さんに説明した。ナンプラが去った後に、chibusaさんが急に部屋に籠もってしまったことも含めて。
「うーん、これといった原因がわからないね」
棚田さんも困惑している。
「まあ、ナンプラとコージくんには明確な対応をしないとだけど」
一瞬、闇の世界の住人が話すような鋭い色が混じったが触れないでおくことにしよう。
「ハルノキくん、チーちゃんの側にいてあげられる?」
「え、い、え? じ、自分でいいんですか? こういうときは棚田さんの方が……」
「うーん、直感だけど昔のことを思い出したってのがひっかかるんだよねぇ。チーちゃん、過去のことなんて一切振り返らない人だから。僕がいるよりも、つきあいの浅い人の方がいい気がするんだ」
「わ、わかりました」
「そのかわりさ、買い出しの荷物コージくんに預けて今すぐ店に来るようにいってくれる? ちょっと深い話、したいから」
「わかりました」
隣にいたコージさんと目が合った。
「もちろんこの時間も時給つけておくからね」
「あ、ありがとうございます!」
棚田さんが短く“じゃっ”といって通話が切れた。
「大丈夫ですかっぁ?」
コージさんは呑気にアイスコーヒーを啜りながらこちらを向いた。
「コージさん、この荷物を先に店に持ってきて欲しいそうです」
「かっしこまりましたっぁ! chibusaさんはハルノキくんにお任せいたしまっぁす!」
小刻みに頷きながらストローで一気にコーヒーを啜りだした。汗をかいたグラスが急激に干上がっていく。
棚田さんの意図が読み取れないから、深い話をしたいという件は伝えないでおこう。
「それではっぁ、ハルノキさっぁん! 店でお待ちしておりまっぁす!」
「わかりました」
「夕方になったら来てくださっぁい! お疲れ様でっぇす!」
まるで放課後の高校生のようにピシッと右手をあげ、手を上下させながら喫茶室を出ていった。
さて、あとはchibusaさんの方だ。
こちらの方はどのように対応すればいいか全くわからない。

「ち、chibusaさん……」
chibusaさんの使っていたベッドのカーテンは閉じたままで反応がない。ただ布が垂れているだけなのに、岩戸のように固く閉塞している。
「あ、あの……chibusaさん、いますよね?」
反応がない。
しかし、他にカーテンが閉じたベッドはなくこの中にいるのは間違いない。
「な、なにか自分、しちゃいましたか、それともコージさんが失礼だったとか。じ、自分でよければ代わりに謝らせてもらえないでしょうか」
……………だめだ。
物音ひとつしない。
まるで結界のように閉じたカーテンをこじ開けることは不可能だ。
自分にはよくわかる。かつて部屋のドアを閉ざしていた頃、ドアの向こうでかーちゃんの声がいくら聞こえても心が動くことはなかった。
扉を閉ざすと言うことは心を閉ざすのと同じこと……外部からいくら手をつくしても…………、いや……、でも、あれか、自分に利害が及ぶことに対しては反応するものか。
そっと床に置かれる食事や小遣いをそっと自室に引き込むことだけは怠らなかった。
そうやって少しずつ外界と開いた距離を縮め、外の世界と再び接点を持てたのがいまの自分だ。
とはいえ、chibusaさんが興味を示すことがまったくわからない。知り合ってせいぜい24時間が経過したくらいの人じゃ……chibusaさんに対する問いかけすらひとつも浮かばない。
あのナンプラっておっさんは、出会って数時間でchibusaさんとあんなに親しげに会話していたというのに。
これが度量の違いってやつなのか。
だとしたら、自分なんて所詮ダメなヤツ。
無性にナンプラの立ち振る舞いに腹が立ってきた。タバコを放置してこっちには副流煙を浴びせておきながら美人の椅子はしっかりと気に掛ける。ライターのときもそうだ、人が一生懸命点けようとしているところをあざ嗤うかのように火を差しだし、気を引いていた。
なぜあんなに上手く他人とコミュニケーションがとれるんだ。自分なんて、自分なんて。
『ねえ』
脳内音声ダイレクトでmisaの音声こえがした。
『あんたさぁ、脳内音声でネガティブなこと呟きすぎ。重い』
だ、だって。こういうとき、どうすればいいのかわかんなくて。ね、ねえmisa、こういうとき女の人と接するにはどうすれば……いいの。
『ハルキ。アンタいよいよそこまで来ちゃったのね。そんなことまでアタシに聞くようになったら人間辞めた方がいいわよ』
だ、だって。
『よく考えて見た方がいいと思うわ。アンタ、人間でしょ? アタシにその質問するのがいかに恥ずかしいことかわからない?』
そんなこといわれても。
『……情けない……アンタみたいなウジウジしたヤツがなんて声かけてもchibusaさんの心はピクリともしないわ。きっと』
身も蓋もなさすぎるじゃないか。
『逆。こういうときは側にいてあげるだけでいいってことよ。それぐらい察しなさいよ、バカ』
「そ、側にいる……」
思わず声にだしてしまった。
しまった。いきなりこんなことを口走ったらchibusaさんに変態だと思われてしまう。
「あ、いや、chibusaさん、いまのは独りごとでございまして、じ、自分みたいなのが側に居るなんていう大それたことは……あ、えっと、あの、えっと、あ、そ、そうだ、ら、ライター見つかりましたか!?」
さらに墓穴をほった。確かにさっきライターがないとchibusaさんがいっていた。でも、いまそんなことを持ち出しても、相手にしてみればはぁ?としか思えな──

コキンッ

氷がぶつかるような濡れた金属音がした。
この音はchibusaさんが使っていたライターの音……

コキンッ

は、反応してくれている!?
「あ、え、えっと、な、なにか食べたいものありますか?」

…………。

し、しまった。
「え、えっと、ひ、必要なものとか、あ、ありませんか?」

コキンッ

あ、あるということか。
なんだ、この状況でchibusaさんが欲しいものって、間違ったことをいったらまた機嫌を損ねるかもしれない。なんだ、考えろ、なんだ、なんだなんだなんだなんだなん──
「ああ、もう、じれったいなっ、タバコ! タバコが欲しいの!」
突然、カーテンが開いた。引きちぎれるんじゃないかと思うほどのスピードで。
「タバコ切れちゃったの! ハルノキくんもってないの?」
「あ、あり、ます」
「ちょうだい」
ドロップをねだる子供のように、手の平を突き出してきたchibusaさんの目元が少し赤く腫れていた。
「こ、これでいいですか……」
胸ポケットにしまっておいたくしゃくしゃになったPARKの箱にはさらに酷い皺がよっていた。
「ありがとう」
chibusaさんの細い指がPARKの箱から1本のタバコをつまみあげる。指先が震えていた。
「あなたは? 吸わないんだっけ?」
「は、は……」
い……い、いや、こ、ここで、いつもと同じことを答えていいのだろうか。
これが“勢い”ってやつなんじゃないのか……。
「……じ、自分もタバコ実は吸うっす!」
「あら、そうなの?」
chibusaさんの整った瞳が大きく開いた。
「こ、コージさんが吸わないんで自分も吸わないふりしてたんすけどね、は、ハハハ」
「じゃ、はいっ」
PARKの箱が差しだされた。こんどは自分の指が震える。1本取り出してはみたものの、ど、どうやって吸うんだ、これ。
「どうしたの?」
ライターを構えたまま覗き込んでくるchibusaさんの顔。そんな間近に迫らないでください。
『黙って咥えろ。そして火を先にあてながら吸い込むんだよ』
misaが脳内音声ダイレクトに助け船をだしてくれた。火を吸い込むのか。
「あ、あつくないですか?」
「え? 暑い? エアコン強くする?」
「あ、いや……大丈夫です」
煙を吸い込んだら口内を火傷したりしないのだろうか。
「はい、火」
コキンとさっきよりもさらに大きな音がした。
chibusaさんが先に火をつけ、少しだけ煙を吐きながら炎を近づけてきた。
「ふぁ、ふぁい……」
「はやく、他人のタバコつけるなんてサービス滅多にしないんだからね」
赤く伸びる火柱の先と白い筒の先が触れた。
す、吸い込む……。
肺を満たすように深く息を吸う。
『あっ』
「あっ」
misaの声とchibusaさんの声が重なった。
煙が一気に体内に流れ込んでくる。
『……バーカ』
グホォ
なにこれ?
視界が揺らぐ。
なにこれ。
目が眩暈まわる──

次回 2019年06月21日掲載予定
『 ハッピーストライク 』へつづく







トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン
トゥントゥトゥ トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン 鳴っている。
脳内音声ダイレクトでimaGeが。
トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン
トゥントゥトゥ トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン こういう時、もう少し色気のある着信音を設定しておけばよかったなぁと後悔する。少しは気が紛れると思うんだ。
もう、わかっているんだ。この先の展開は。
着信音の流れる回数が増えれば増えるだけあのお方の機嫌が損なわれていくのが。
“応答”ジェスチャーをすればいいだけなんだけど、その応答ジェスチャーをする勇気がでない。
トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン
トゥントゥトゥ トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥン でも、逃げ切れるわけがない。
トゥトゥル トゥトゥ トゥトゥトゥントゥ……
「……はい……セイジです……」
一瞬このまま留守音声のモノマネでもしてみようかという考えがよぎる。
「イナサクだ。反応が遅えな……」
「も、申し訳ありません」
もちろん、この人の声を聞いてそんな大それたことをやり遂げる自信はない。
「トラブルか」
「は、はい……少々問題が……」
さっきから何度も覗き込んだ軽トラのボンネットをみやる。
「ちょ、ちょっとですね、ば、バッテリーがあがっちゃいまして……」
「バッテリー、なんであがったんだ」
「いや、ちょっと覚えてないんですけど、昨日、走ってたら意識がもうろうとしてきて」
「おまえ、いまどこにいる」
「や、その……」
絶望的な気持ちで何度も眺めた辺りの景色を見渡す。切り立った崖と鬱蒼と茂る木々。民家のひとつも見えない。修理を呼ぼうにも到着がいつになるのかまったく見当がつかない。
「か、閑静なところです」
「そこで朦朧としてどうしたんだ」
「や、それがですね、睡魔が襲ってきて、あ、これは危険だな。適度な休憩が必要だなとおもいまして、仮眠したっす」
「エンジンを切ったんだな」
「はい」
「ライトは消したんだよな」
「あっ! もちろん、ライト……っす……」
ライトスイッチにかけた指が急にぬめりだした。ライトがONになっていた。
「ライト点けっぱなしにしてたんじゃねえなら別の理由だな」
「お、オッス! じ、自分全力で原因を解明します問題ないっす」
「わかった。つまりまだ目的地にはついてねえんだろ」
「お、オッス!」
「じゃあちょうどいいかもしれねえな」
「えっ!?」
暗闇でフラッシュを焚かれたような気分。
「いいわすれたことがある。荷台の荷物、少し寝かせてからじゃねえと意味がねえ」
「に、荷物……は、はい!」
荷台に正体不明の積み荷があったことをすっかり失念していた。
「セイジのことだからな、すでにまもるたちと合流しちまってるかもしれねえと思ったが、さすがだな」
「お、オッス!」
「それじゃあ、はやいところバッテリー充電して荷台に電力を戻せ。これ以上は電力途切れさせるんじゃねえぞ」
「え゛っ……お、オッス!」
「じゃあな」
余韻と恐怖を最大限に残すタイミングを計算しているのだろうか。
音声が切れたあとに急激に指先が震えだした。
「どうすんだ。こんな山奥で……」
自分の声が静かに山間を駆け巡った。






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