河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
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第104話『 マイティーベース 02 』

「ナツオ、できたぜ」
「うっす。では、お代はこれで。約束通りバックマージン分は抜かせていただきました。あ、それから、このchibusaシクネーチャーモデルは、サンプルとして預かりますね」
「さっきオメェが言ってたリスクヘッジだか、同意からのパブリシティがどうこうってやつは任せちまっていいんだな?」
「ぼくがネゴシエーションすれば彼女は必ず落ちます。プロモーションプランも頭の中で組み上がってるから、あとはトリガーを引くタイミングだけ」
「ナツオ、オメェ……」
具体案はない! でもこれで押し通す! しかない!
「よくわかんねーけど……、なんかすげーのはわかった! まもる、前金をナツオに渡せ、そしてオマエはすぐに消しゴムハンコ作りに取りかかるんだ。量産体制に入る!」
それまで宙を見つめていたまもるさんが、小脇にある上半分だけの茶箪笥から、のそのそとお金を取り出した。
「オレは、これからクラブまわってフォルテッシモロングの回収に動く。戻ってくるまでにハンコを仕上げとけ!」
そういわれたまもるさんが突然お金を床に叩きつける。
「ハ、ハ、ハンコハンコって! ボク、ハンコなんか作りたくありませんっ!」
両拳を上下させ、地団駄を踏みだす。
「おい……、どした? 急に」
「ハンコ作りって、なんか、なんか! なんでボクがハンコ係なんだ!」
「いまさらなにいってんだよ、オメェが欲しがってた彫刻刀拾ってきてやったじゃねーか……、カッターじゃ本気だせなかったんだよな?」
「ボクだって、プロモーションとか、ネゴシエーションとか、トリガーがしたいです!」
「まもるぅ……」
「ハンコ係はいやです!」
「まもる。いいか、世の中で一番すげえヤツは誰だ?」
「そんなの、かっこいい仕事してる人達にきまってます! ボ、ボクにだってできます!」
「そうだ、かっこいい仕事してる奴が最強だよな。そいつは誰だ?」
「それは……、ハンコ係じゃない! 絶対!」
「そうか……」
パークさんは肩を落としうつむくと、ゆっくりその場に座り込んだ。
「オメェはそう思ってたんだな。オレは悲しい」
「だ、だってそうじゃないですか! 今だってパークさん、ハルノキくんの事すごいほめてたし、大きなお仕事任せてたじゃないですか!」
な、なんだこれ。なんだこれ。
「まもる……、よぉく訊け。確かにハルノキナツオはすげー奴だ、それは認める。だからオレも仕事をまかせた」
「ほら! やっぱり! ハルノキくんハルノキくんって! で、でもハルノキくんは、ボクがいなかったらここまでこれなかったんだ! ボクがここまで連れてきたんだから、ボクにもできます! ハルノキくんなんか、ハルノキくんなんか……ボクがいなかったら何にもできないんだ! ハルノキくんがハンコ係になればいいんだ!」
「そうか。じゃあ、ハンコ作る仕事はナツオに渡しちまってもいいのか?」
「はい! ボクがネゴシエーションをコミットします!」
あ、いや、ちょっ。
「ナツオ悪りぃがハンコ作ってくれねえか?」
「あ、えっと、ちょっとそれ無理っす」
鬼の首を取った白豚のようにまもるさんが立ち上がる。
「ホラ! やっぱりハンコ係やりたくないんじゃないか!」
「いや、そうじゃなくって……」
「ハルノキくんばっかり、カッコイイ仕事しようとしてるんだ!」
「待て、まもる」
パークさんが手で制した。
「ナツオ、もう一度聞くけど、オメェにハンコがつくれるか?」
「いや、自分には作れません」
彫刻刀でダイコン削りたいとは思わない。
「そうか、作れないか、そうだよな、一般人にいきなりハンコ作れったってムリだよな。それに、サインの滑らかな曲線を再現するなんてのは、特殊な才能を持ったごく一部の人間にしかできねぇわな……オレがなにいいてえかわかるか、まもる」
まもるさんが宙を見つめている。
「オメエ今朝いったよな、サインどうやって印刷すっか悩んでるときによぉ。ボクがサイン彫ります! ってオレぁ、オメエが走り出してダイコン拾ってきたときに確信したんだ。歴史はこうやって動くんだなってよ」
「ボク、ハンコつくる、ハルノキくんがタバコを売る」
「そぉだ。ハンコはオマエにしか作れねぇ、それ以外はナツオに任せてもいいだろ」
「はい!」
「よし。ナツオ。待たせたけど改めて頼む」
「あ、じゃあ、自分はこれで失礼しますね、また連絡します」
一刻も早くこの場を立ち去ろう。
PARKを胸に抱えてパークハウスを出た。
後ろから、まもるさんが声を張り上げて見送っていたが無視した。
こっちはそれどころじゃないんだ。
なんなんだあのデブ!
危うく話が頓挫するところだったじゃないか。
しかもまだ問題は残っているんだ。
「どうする? どうする! どうする、どうする、どうする」
パークハウスの立つ小高い丘を下りながら脳内は次の行動を猛烈にシミュレートしはじめた。
カートンに収められたそれぞれの箱はおろか、カートンの外箱にまで“ガムネコ”が描かれた超プレミアムPARKの仕入れには成功した。
だが、この仕入れに使った金は、昨日、渋井さんたちにPARKを売った店の売上金だ。
まず店に売上金を戻さなければいけない。
それからタンジェントと競馬観戦をするための資金も用意しなければ。
即金を得られる方法で、このプレミアムPARKを捌くしかない。
今日もダンサーを探しに店へやって来ると思われる渋井さん一味に購入を持ちかけるのが確実だが、店が始まるまで待っていては、売上金が消えたこともバレるしタンジェントとの約束にも間に合わない。
imaGeオークションに出品するか?
いや、買い手が付くまでには時間がかかる。
棚田さんかナベさんに前借りを申し込むか? 
バカヤロウ。
売上金使って仕入れてきた商品を担保にしたのがバレたら元も子もない。
どうする、どうする、どうする、どうする……ある意味本当の“どうどう巡り”を繰り返し、気がつくとPARKのカートンを強く握りしめていた。
気をつけなければ。シワでもつけたら価値が下がってしまう。見た目はカステラの箱以下だが、金銭的な価値でいえば金塊と同じだ。
………どうする、どうする、どうする………。
自問自答を繰り返しているうちに、いつのまにかホットトックプレイスの前に辿り着いていた。
……とにかく、ここはいちど部屋に戻ってじっくり考えるか……。
フロントを抜けエレベータへ向かおうとすると、奥にある喫茶室の方からコーヒーの香りが漂ってきた。
濃厚な匂いが鼻腔をくすぐる。
「……ぁ……タバコすいてぇ……」
鼻頭とコーヒーの香りが戯れた瞬間、思考よりも先に言葉がでて、喫茶室へ足が向いた。
意志とは無関係に頭の中で“タバコスイテェ”というフレーズが煙のように渦巻く。
そうか。これが、“とりあえず一服いっぷくすっか”の境地なのか。

喫茶室は先日よりも混んでいた。
土曜日の午前中ということは、もしかすると地下の“寮民”以外の一般客も利用しているのかもしれない。
カウンターに立っていたマスターは、目が合うと“おはよう”と声を掛けてくれた。
「お、おはようございます」
覚えてくれていたのか。1度しか来たことないのに。こういう喫茶店のマスターと顔見知りになれたことが素直に嬉しい。
「あの、タバコが吸える席は……」
「ウチは、全席“喫煙”だよ」
「そうですよね……」
赤面モノの愚問だった。特別特区トックトクのど真ん中にある老舗のビジネスホテルに店を構える喫茶店でタバコが吸えないわけがない。
「ご注文は?」
物腰の柔らかい声色でマスターが注文を尋ねてくる。
「あ、あの、ブレンドを」
「席にお持ちしますので、空いているお席へどうぞ」
羽音のような静かな声だった。
この店のゆるやかな土曜日の朝を演出するのはマスターがつくりだす雰囲気なのかもしれない。
「あれ? ハルノキくん?」
老紳士の佇まいに見入っていると後ろから声を掛けられた。
「た、た、た、棚田さん!」
振り返ると、カウンターよりのテーブルに棚田さんが座っていた。
「はは、どうしたの? あ、昨日、僕が店休んだから? ごめんね、昨日はちょっといろいろ立て込んじゃって」
「あ、いや、あの……」
あ、あなたが今、この街の中で、一番会っちゃいけない人なんです。棚田さん。
「それにしてもハルノキくん、早いね。あ、もしかして夜遊び?」
「ど、ど、どちらかというと早起き、ですね」
「じゃあ僕と同じだ。どう? 一緒に?」
棚田さんが空いている椅子を勧めてくれた。
「い、いや、自分、ちょっと用事を思い出したので……」
「ブレンドです」
背中に銃口を向けられたような気分になった。
マスターがカップを持って立っている。
「こちらでよろしいですか?」
「は、はい……」
ここは、座るしかないか。
棚田さんの正面の席にマスターがカップを置いてくれた。
「ごゆっくり」
マスターは軽く頭をさげてカウンターへ戻る。
「あれ、僕の親父なんだ」
「えっ!?」
「ショルダーパッドを僕に譲ってここに店をだしたの」
「そ、そうだったんですか……」
「ところで、ハルノキくん昨日は大活躍だったみたいだね?」
「え、え?」
「ナベくんが褒めてたよ。アイヅ、いぎなりVIPルームでタバコ2カートン捌いだ。って朝、連絡が来たよ」
膝の上においたPARKを落としそうになった。
まさか、ナベさんはもう気づいているんじゃ。
「ま、まぐれですよ」
「ダンス大会までの間さ、ショルダーパッドのために力を貸してね、あ、もちろん気に入ったらずっといてくれてもいいけど」
棚田さんは朝の日差しに負けないくらい爽やかにコーヒーをすすった。先のことをいってくれるということは、まだバレていないのか。
「ほんとに……、ハルノキくん見たいに一生懸命働いてくれる子がいるのに……いいかい、ハルノキくん。コージくんやナンプラみたいなヤツらの真似はしちゃダメだよ」
「真似、ですか?」
「勝手にラジオの番組編成かえたり、店の金を持ち逃げしたり」
思わず、コーヒーを吹き出した。
「大丈夫?」
「は、はぃ゛……も、持ち逃げってお金ですか?」
「あ、いや、お金の話は例えばの話だよ。ラジオをジャックしたのはホントだけど」
「と、とんでもない人たちですね」
「まったくだよ」
だ、ダメだ。そろそろ切り上げないと。
でも、タバコを吸いたい。
「あ、あの棚田さん、タバコ吸ってもいいですか?」
「え、あ、あぁ、え、ハルノキくん吸ってたっけ?」
「は、はい、おとといから……」
「そうか、もちろん。吸って吸って」
「失礼します」
「やっぱりコーヒーとタバコはセットだよね」
「そ、そいうものですか?」
「え? それで来たんじゃないのここ?」
「あ、や、そ、そうっす!」
ポケットからサンプルで貰ったPARK WILDEを取り出す。
「なんだいそれ? PARKにしては長いね」
「あ、こ、これは、その新しいPARKらしくてこの間、サンプルで貰ったんです」
煙を吸い込むと脳みそが冴えてきた。
なんとかこの場を離れないと、タバコを換金しないと。
「へぇーPARKに新作なんてでるの? ノゾミちゃんがみたら驚くだろうね」
ゴシャッ!
ブリタニカルの開閉音みたいな音が頭の中に響いた。
「た、棚田さん。そういえばノゾミさんって何時ぐらいから店に来てますか?」
「えっ? もうそろそろ、いるんじゃない?」
「午前中からっすか!?」
「うん。Lounge310はランチもやってるからね。もう仕込みに入ってるんじゃないかな。あの子は偉いんだよ。ひとりで切り盛りしてるんだから……」
来たっ!
「棚田さん、自分、ちょっと店に忘れ物したみたいなんです。ちょっと行ってきてもいいですか?」
「う、うん。構わないよ」
戸惑う棚田さんを尻目にPARKを抱えた。見えて来たぞっ!

「んで、アタシのとこに来たと」
「……っす……」
カウンターの中のノゾミさんはLounge310開店中の30倍くらい凶暴な視線を突き刺してくる。
「オマエさ、デリカシーとかないの?」
「……ど、どういうことでしょうか」
「昨日の今日でアタシに頼むか? それ」
「どうしても現金が必要なんです……」
ショルダーパッドに走ったのは、早計だったか。いや、ここは行くしかない!
渋井さんの連絡先を知っているのはこの人しかいない。
「オマエ、ホントに空気読めねえな」
ノゾミさんが、カウンター越しにタバコの煙を吹きかけてきた。
“タバコすいたい”
あろうことか、こんな状況下でも、タバコの香りは人の心を惑わせてくるのか。いや、ピンチにタバコを吸おうとする映画は何度も観たことがある。ここは、まず冷静に相手の懐に飛び込むしかない……。
「あ、あの、の、ノゾミさん……、じ、自分も1本吸って、いいっすか……」
「あ?」
「た、タバコ……を1本いただけないでしょうか……」
詫びる気持ちを込めて後頭部を押さえ、できるだけ情けない表情で頼むとノゾミさんは、いまいましげに舌打ちしながら手近にあったPARKを投げた。
顔面にめり込むくらいの衝撃。
「吸えよ」
「あ、ありがとうございます」
やっぱり。
“もらいタバコ”の申し出を断る喫煙者はいないんじゃないかという読みが当たった。1本取り出し、そのまま箱をポケットにしまう。
「人の心を踏みにじったうえに、タバコ盗むとは、オマエ、とんでもねえ度胸だな」
聞こえない振りをしてブリタニカルを開く。

ゴッシャンッ!

ブリタニカル、着火。
PARKが脳内を駆ける。
指先が震えていた。
なんで、貰ったタバコをポケットにしまったんだ!? つい、反射的にやってしまったこととはいえ、この状況では取り返しがつかない……。
謝って返せば……。
……いや、違う……。
違う。
脳内に煙が満ちるのと比例して、モクモクとプランが広がっていく。
勝負だ。
「ノゾミさん、違います。これはパクったんじゃありません」
「どうみても、現行犯だろ」
「これは、前金の報酬ですよ」
「はぁっ!?」
「ノゾミさん、あの後、渋井さんに連絡しましたか?」
「し、してねえよ」
「なぜですか?」
「あ、アレは、オマエ、仕事として教えられた連絡先なんだから……」
「ということは、プライベートな連絡はしたいけど、連絡ができなかったということですよね」
「な! なにいってんだよ……」
「仕事用に連絡先を渡した人間からいきなりプライベートな連絡がきたら相手に引かれるんじゃないか。でも、連絡してみたい」
「な! なんでそうなるんだよ。違う!」
「ノゾミさん。自分、名案があるんすけど」
「名案?」
「ええ。渋井さんに連絡するための名案です」
「な!」
「これからお教えします。その報酬が先ほどのタバコです」
「オマエ、ものスゴイ自信だな」
「はい。完璧なプランがあります。いいですか、仕事の用事にほぼ近く、且つこの時間にどうしても連絡する必要があり、それでいて堅苦しくない話があります」
「い、いってみろ……」
「自分以外の人間がどうしても困っている状況がいいと思うんです。仕方なく助けてやっているという見せ方です」
「だから、早く、言え!」
「これを渋井さんに買ってもらいたいんです」
オールガムネコのPARKをカウンターに乗せる。裏取引される金塊か拳銃かのように厳かに。ブツを目にしたとたんノゾミさんが目を見開いた。
やはり、普段からPARKを吸っている人でも驚くことらしい。
「これはビジネスです。渋井さんの仲間が欲しがっていたガムネコPARKを大量に仕入れました。ここで太いパイプがあることをアピールするのはノゾミさんにとってもプラスになると思います」
「そ、外箱にまでガムネコ……」
ノゾミさんが、唇をワナつかせる。
「大丈夫です。いざとなったら、ハルノキが無理矢理連絡しろと騒いだとでもいえばいいんです」
「……わ、わかった……。連絡してやる」
「ありがとうございます」

資金は満ちた──。
ノゾミさんのおかげだ。
渋井さんに連絡し、商談をまとめてくれたうえ夕方までの間、現金を立て替えてくれた。
プレミアムPARKの代金で店に金を戻してなお、プレミア価格分の差額が数万円手元に残った。これなら大勝負も可能だし、浴びるほどデリカーを飲んでも経済的負荷に耐えられる。
ノゾミさんの恋路を祈りながら寮の自室に戻る途中フロントで貸し出していた完全没入フルログイン用の端末を借りた。今日のログインは個室しかありえない。
残る問題は……身だしなみか。
身体のあちこちからそこはかとなくパークハウスの匂いが漂っている。“ブリンカーあの部屋”は、変態的なルーム主の意向により、偏執的に現実世界を再現しようとする特徴クセがある。完全没入すれば口臭や体臭まで再現されてしまう。仮想世界側のエフェクトでごまかしたとしても、タンジェントならスグに気づくだろう。
ごまかしが必要なほどすさんだ現実生活を送っていると思われては困る。
徹底的に風呂に入ろう。
女性とデートをするときに注意すべき入浴方法はなんだろうか。テロッテロのテッカテカに“期待してます!”とみえるのはマズイだろう。
「ねえ、mi……」
ダメだ。待て。ダメだ。
あのお方に検索ワードが伝われば間違いなく辱めをうけることになる。ここは秘匿極私的検索シークレットプライベートブラウジングモードで検索するのが得策か。
シークレットモードを起動する、視界が黒く反転する。
<検索      >
素っ気ない検索窓に囁き声で検索ワードを告げる。
<初デート、初体験、身体の洗い方、検索>
視野内の表示が切り替わ──。
『アンタ、シケモク以下だわ』
突然、脳内音声ダイレクトにmisaの音声こえが割り込んできた。
「な、なんで!」
『前にいわなかった? あんた達がみてるシークレットモード、あたし達に筒抜けだって』
「で、でもそれをあえて知らない振りをするのがアシスタントプログラムだって……」
『もぉームリ。デートの直前にマニュアル探すとか、気持ち悪い。ムリ』
「ム、ムリって」
『こんなヤツのアシスタントプログラムとか、いいかげん勘弁してほしい』
「そ、そ、そこ、そこ、までおっしゃらなくても……」
『息、くさっ』
「えっ? うそ?」
『口臭くらいでビクビクしてる男に女なんて抱けねーから』
「でも臭かったら嫌われるだろ!」
『もういいからさ、好きなように準備してくれば、どうせ期待しすぎなのバレて引かれるだけだから』
「だからその準備をどうすればいいのか調べようとしてたんだろ」
『とりあえず老廃物を全部出してこい。サウナだサウナ。この時間ならロウリュやってっから』
「そ、そうか」
考えてみれば自分は、サウナや大浴場、清潔になるためのあらゆる設備が整ったホテルの地下にいるんじゃないか。
「わかった! サウナに行く!」
『行ってくれば。汗だらだらにかいて、歯茎から血が出るほど歯、磨けばけばいいんじゃない? あ、でもimaGeチップは外して。アタシは2度とサウナなんてゴメンだから』
「はい!」
『戻ってきたころにはアタシのアンインストールも終わってるかもしれないし』
「ま、まさか、冗談だよね?」
『………─── 』
耳鳴りがするほど唐突な静寂が脳内に広がった。もしかすると、またどこかへ旅だってしまうんじゃないだろうか。
一抹の不安はよぎったが、タンジェントとの約束に勝るものは存在しない!

「熱波、おかわりは?」
ドアを開けると汗まみれのナンプラが尋ねているところだった。
「お願いします!!」
中に向かって叫ぶとナンプラがこちらをみた。サウナの中からは地獄へ引き摺り込もうとする亡者が群がるような熱風が吹き出してくる。
「小僧……ロウリュの途中入場は御法度だ……ドアを閉めろ」
「お、お願いします! 自分にも熱波を!」
「わけありか……」
先にロウリュに参加していた人達を見渡す……と、先客はコ、コージさんと、タオルを頭からかぶった男の2人だけだった。
2人ともひな壇の最上段の壁に背中をどっしりとあずけている。
「よぉし、じゃあもういっちょういくぞ!」
「は、はっっぁいっ!」
コージさんの表情に汗と非難の色が滲む。
最上段はロウリュにおいて最も苛烈な場所だと聞いた。やはり常連は気合いが違う。
「先生! よろしいですかね?」
ナンプラが媚びたように最上段のタオル男に声をかけた。
「それとも、先に出ますか?」
「……かまわないよ」
顔を覆っていたタオルに手をかけながら男がこたえ、た……。
「と!」
ずり落ちたタオルから現れたのは、うねるような黒髪にサウナだというのに漆黒のサングラス──。
「豊川……さん!」
「んん? だれ?」
サングラスの表面にはびっしりと水滴がまとわりついている。この人、なぜサウナの中でわざわざサングラスを、いやその前になんでココにいるんだ。
「先生は先に出た方が」
「ほら、オシッコとかも我慢した後の方が気持ちがいいじゃない」
豊川はまたタオルを被り直した。
あの夜の反省はいかされていないらしい。
「わかりました。よし、ハルノキ、先生のお許しがでたぞ。入れ!」
「あ、ありがとうございます」
なぜ豊川が“先生”と呼ばれているのか違和感を覚えつつ、中へ入り、ひな壇の最前列に座った。
「それでは、おかわり……参ります」
ナンプラが腕を振り上げ、タオルを高々と掲げる。く、来る。
「あ、ちょ、ちょっちょっと待って」
豊川がむくりと起き上がった。
「どうしました!」
ナンプラもタオルを降ろす。
ふらつく足で立ち上った全裸の豊川が、片耳に手をあてながらこちらへ突進してくる。
「う、うん、僕。ちょっとさ、急いでるんだけど、うん。納品は今日中で……セッティングも、うん……」
そのまま外へ出て行った。
「コージ! 様子みてこい!」
「は、はっぁいっ!」
コージさんも足元がおぼつかない様子だ。
「豊川さん、大丈夫ですかっぁ!」
まるで腰巾着のように豊川の後を追う。
残されたのは自分とナンプラ。
1対1サシになったな小僧」
居残りさせられて先生の正面に座らされているような気分だ。
「なんだ? そのシケたツラは? ミルクリのクニタチみてえだな、ぶははは」
クニタチという単語が聞こえた気がして一瞬、国立さんの顔がよぎる。
「小僧、オレは魂を込めてタオルを振り、オマエに熱波を“振る舞う”! オマエは魂を込めて胸を張れ!」
黙って見つめた。
目が合う。
山吹のバスタオルが舞う。
ナンプラの風神のごとき形相。
「いくぞ! ふぅぅ……ふぅうん」
ぶばっぁっ──。
視界にねっとり広がるタオルの波。
絡みつく熱波を連れて来る。
「もうっぃっちょ! ふぅっぅん!」
「あぁっぁ、ぁ」
あのときのコージさんの叫び声はこれか──!
耐えろ。
タンジェントに。
老廃物を絞り出すんだ!
「耐えたな。でも、ムリはすんなよ」
ぶばっぁっ──。
熱風が絡みつく。
「ん、急に根性座ったな」
ぶばっぁっ──。
「野郎が根性みせるってことは女……だ…な」
ぶばっぁっ──。
熱波の中に溶け込むようなナンプラの低音。
「はっぁっいっ」
素直に返事をしていた。
「話して、みろっ!」
ぶばっぁっ──。
「あ、いや」
ぶばっぁっ──。
「なんだ、悩みでもあんのか?」
汗を振り絞るように頷くと熱波が止んだ。
「聞いてやるぞ、小僧」
手を止めたナンプラは、額の汗を拭い、いきなりTシャツを脱ぎ短パンはぎ取った。
な、なんだ!?
そのまま手に持っていたタオルを腰に巻いて隣に座った。
「ここからは、オレもひとりのサウナーだ」
「え、え?」
「裸のつきあいだ。話せ」
「な、悩みというほどではないんですが……」
そのままタンジェントと会うことや期待しすぎて引かれるんじゃないかという不安を話す間、ナンプラは静かに眼を閉じたまま頷くだけだった。

「…………やっちまえ」
ひとしきり話した後、しばらく沈黙していたナンプラは唐突にいった。
「や、でもいきなりそんな展開に持って行くの自分にはハードル高いっす……」
「とりあえず、押しだ。相手に引かれるならその距離分も押して押して進むんだ」
「で、でも、自分……初心者なんで転びませんかね」
「オマエは童貞ってことを気に病みすぎている。初体験がヴァーチャルだろうがリアルだろうが関係ねえ。まずは最初の一歩を踏み出せ」
「す、すか!」
「コトにおよべるかどうかってのは、気合いだ。いざとなったらな……」
ナンプラが突然ひな壇に土下座の格好で座り直した。
「こうだ。礼儀正しく膝をつき頭をさげる。そして心から湧き出る言葉を絞り出せ……」
「や、ヤラせてください……」
さっき口から滑り出てきた“タバコすいたい”と同じくらい、思考を絡め取るシンプルで強力な言葉だと思った。

「でっぇっす! でっぇっす!」
サウナを出るとコージさんが水風呂の中で叫んでいるだけで、豊川の姿はなかった。
「は、ハルノキさっぁん! お疲れ様でっぇす! 水風呂に入った方がいいでっぇす!」
コージさんの隣に飛び込む。
「ぁ゛っぁ゛っぁ゛っぁぁあああ」
喉が壊れたんじゃないかと思いたくなるような声が漏れる。
「ハルノキさっぁん! これがっぁ、サウナのっぉ、醍醐味でっぇっすっ!」
「おう、コージ、豊川先生は?」
ナンプラも全裸のままあらわれた。
「先生はっぁ、先に出ましたっぁ! 手配が整ったようでっぇす!」
「そうか! そうか、そうかそうぁぁ゛っぁ゛っぁ゛っ」
話ながら水風呂に浸かっていくナンプラは全身を震わせながら眼を閉じる。
「じ、自分先にでます」
「はっっぁい!」
「コージさん、出ないんですか?」
この冷たい水に長時間浸かっているのはよくないのではないだろうか。
「わたくしはっぁ、もう少しいまっぁす!」
「そ、そうですか……それじゃ先に……」
「そ、そうだっぁ! ハルノキさっぁん!」
振り返ると水面から首だけだした状態のコージさんが笑っていた。
「わたくしはっぁ、しばらく有休を取りまっぁす! お店をよろしくお願いしまっぁっす!」
「え?」
「小僧。オレもだ」
ナンプラも笑う。
理由を尋ねようとしたが、水の中にぽっこり浮かぶ2人の笑顔を見ていたら、どうでもよくなって聞くのをやめた──。

次回 2019年11月08日掲載予定
『 マイティーベース 03 』へつづく

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