河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
  前に戻る DOS×KOI 次を読む

第106話『 マイティーベース 04 』

なにかのバグか? もしくはウィルスか?
PARKとブリタニカルを呼び出した直後、タンジェントはあさっての方を向いたまま動かなくなった。
「あ、あの……タンジェント?」
せっかく盛り上がってきたところなのに。
「タ、タンジェント……?」
いや……、もしかして、お、怒ってる……?
僅かな動きを読み取るために、タンジェントの唇を凝視する……。
同時に蘇る、あの時の、あの感触。
「……ハルキ……」
突然、唇が開く。
卑しい想像を咎められたような気がして、反射的に背筋が反り返る。
「は、はいっ!」
「ボクの口……なにかついてる?」
視線は合わないまま。かつてこの部屋ブリンカーで競馬を観ていた頃のようだ。
「な、なにも……」
「じゃ、なんでそんなに唇みてるの?」
「気のせいではないでしょうか……」
“キ、キッスのコトを思い出していました”などとは、口が裂けてもいえない。
「ボクとチューしたことでも思い出した?」
「あっ……えっ!?」
タンジェントが満面の笑みで、みつめてくる。
「図星ぃ!?」
「は、はい、あ、いや、そんな」
「アハハ、ハルキ、また敬語に戻ってる!」
よ、よかった。気のせいか。
「チューしたいの?」
「え、う、え? え? え?」
来た!
来た!
来た!
本命馬が後続の馬に10馬身くらい差をつけて最終コーナーを曲がってきたような気分。
このまま! このまま!
タンジェントは静かに目をつぶる……。
「た、タンジェント……」
いきなり肩に掴みかかるようなヘマはしない!
“仮想デート必勝マニュアル”にも“週刊ヴァーチャルストリート”にも“ヴァッチャ!”にも、読み漁ってきたありとあらゆるマニュアルに書かれていた……クールに、やさしく、ムーディーに……そっと肩に手を載せるんだ!
タンジェントの肩へむかって手を伸ばす。
ゆっくりと、いつくしむように。
「ハルキが約束、守れたらねっ!」
タンジェントの目がいきなり見開く。
行き場を失った右手が、パントマイマーのように空中で凝固した。
「え……!?」
「ハルキ、いまボクが怒ってたのに気づいてなかったでしょ?」
や、やっぱり、怒っていたのか!?
「もしくは、機嫌を直したと思ってホッとしたでしょ?」
まるでウソ発見器ポリグラフ、冷静に対象物を観察するような視線が覗き込んでくる。
そんなところまで見透かされていたのか。
ここは言い逃れをするよりも素直に……。
「……も、申し訳ございません」
「そういうところ直さないダメだよ! もっと人の気持ちを汲み取れるようにならないと」
「わかりました」
「ゼッタイわかってないよぉ」
「いえ、重々と」
「じゃあ、ボクが何で怒ってるかわかる?」
「あ、あの、た、タバコ……でしょうか」
「ボク、タバコ自体は別に否定しない。タバコの何がいけないと思う?」
「身体に毒……」
「違う!」
「キ、キッスをすると息が臭くなる……」
「ボクとの約束守れないかもしれないから!」
「へっ?!」
「タバコってさ、どんどんどんどん値上がりしてるでしょ? 値上がりの勢いはこの先も変わらないと思う。どうするの? とんでもない値段になったら」
「そのときは、やめてしまえば……」
「あまいよぉ。タバコはそう簡単に辞められないとおもう」
「じゃ、じゃあ本数を減らす……」
「うーん、じゃあ本数を減らしたとしよう! でも0で無い限りタバコを買うよね?」
「ほ、ほどほどには、はい」
「生涯タバコ代を計算してみようか」
タンジェントがエアロディスプレイを1枚浮かべる。
「1週間にひと箱に我慢したとして、…まあ、難しいとおもうけど…いま23歳のハルキが、おじいさんになるまで、そうだなこの先60年タバコを吸っていくとしよう。1年が50週だとして、50週の60年で3000箱だよ? いまのタバコの値段で計算してたって、相当な金額だよね?」
まるで、勝ち馬の配当金オッズを計算するような口調でタンジェントはまくしたててくる。反論の余地は1mmもない。
「それでお金が貯まらなくなってさ、もし上空に行けるようになったときにお金が必要になったらどうするの?」
「上空は……、試験に受かれば……」
「それまでにお金は要らないの?」
「そ、それは……」
「お金のせいで、やりたいこと我慢するのって悔しいと思う。ボクだって、女だからそういうこと少しは考えるんだよねぇ……」
「た、確かに……え、ちょっ」
いま、ものスゴクさりげなく重大な情報が通り過ぎていかなかったか……? 
「ちょ、ちょっと待って! タンジェント!」
「なぁに?」
「た、タンジェント、やっぱり現実でも、じょ、女性なの?」
「どうしたの、いきなり」
「だ、大事なことなんだ!」
「うーん、ボクもいちおう女の子に属してるといえるかな」
女の子……確定。
「ついでに教えちゃうと……、ボク、うーん、やっぱりいいや」
「え、なに!?」
「うん、あまりいいたくないけど、ボク、いちおう、上空市民ってやつなんだ」
「じょ、上空市民!?」
「そう。黙っててゴメンね」
「だ、だって上空都市エデルから下界ってそんな簡単に行き来できないはずじゃ……」
「そんなことないよー、上から下にアクセスするのはカンタンだもん」
どことなく浮き世離れしているとは思っていたが、離れているのではなく“浮き世”の住人だったのか。
「あっ、ハルキ、話そらしてるけど、タバコの話だよ、タ、バ、コ!」
「し、失礼しました」
「だからタバコは身分相応になってからってこと。ボクとの約束を守れるようになってから!」
「約束……。じょ、上空に行くっていう?」
「そう! まずは守衛所で働くことだよね?」
「そ、そうだよね……」
「ハルキならできるから、きっと」
タンジェントが笑った。
「ぜ、絶対に、上空にいく!」
「うん、待ってる」
「絶対に行く!」
「じゃあ、それまではチューはお預け」
タンジェントはそのまま2本の指を額に当てる。タンジェントのログアウトジェスチャー“小さな敬礼”か。
「ね、ねえ! タンジェント。最後にひとつだけ教えて!」
「なに?」
「げ、現実のタンジェントと、ここにいるタンジェントは、に、似てるの?」
「……アハハハハハ、うん。アバターは自分のイメージに似てる。チクリンほどじゃないけど、詐欺のレベルではないかな」
リアクションを待たずタンジェントは、指で額を小さく弾いた。
「それじゃ、まったねー」

好きな人と夢で会った朝のようなログアウト──。
現実でないことに気がついた虚しさと、夢の余韻に浸る幸せな脱力感。
ログアウトが完了しても身じろぎできず、上段ベッドの底板をみつめる。
「……約束……か」
カーテンに“起こさないでください”の札を下げたのは間違いだった。
“起こさないでください”ではなく“起き上がれません”だ。
「……可愛かった……タンジェント……」
あそこまでいってくれる人がいる。
怠惰な時間を過ごし、当たり前のことすらデキていなかった自分が恥ずかしい。
でも過去を恥じるだけじゃだめだ。
過去を嘆く暇があったら、立ち上がろう。
未来を憂う余裕があるなら、行動しよう。
約束を守るんだ。
約束を。
約束……。
……そうだ……そうだ……。思えば身近に約束をして、そのままにしてしまっている方がいた。
「……ねえ……」
そういうところから、正していく必要があるのかもしれない。人として。
「misa……」
『えっ、なに?』
人間と会話していない時にアシスタントプログラムが何か思考しているのかはわからないが、misaは“虚を突かれた”ような音声こえで反応を示す。
「いっこ、謝ってもいい?」
『な、なに? 気持ち悪い』
反動をつけて上体を起こす。
時刻は17:58。
もうすぐ出勤か。
「あずきさんの店でさ……、絶対にimaGeボディ買うって約束したのに、自分、この街にきてから、無駄遣いしすぎました。ごめんなさい」
『ど、どうした? おい?』
「オレ、上空に行く」
アタマか? ログアウトのときだな!』
「守衛所に潜り込んで、上空うえで一旗揚げて、misaにimaGeボディを買って、そして…タンジェントと結婚する!」
『いま緊急通報するから! 気をしっかり持ちなさい!』
「い、いや、オレ、正常だよ……タンジェントと話してわかったんだ。人として、志をもつことがどれだけ大切か。約束は守らないと」
『非常時くらい、アタシだってちゃんとアンタの面倒みるから!』
「働くから! もっと真剣に!」
『……ハ、ハルキ、ほ、本気?』
「オレ、ちゃんと働くよ!」
『……そ、それ、楓さんにもいってたよね?』
「うん。かーちゃんとも、misaとも、タンジェントとも約束! やる!」
まずは、ダンス大会だ!
クミコを手に入れなければならない!

黒々とした髪、白く輝くバスローブ、明快なモノトーンで彩りあそばされた豊川先生はうもれるように椅子へ身体を沈み込ませていらっしゃる。
「国語辞典はさ、“間”で迫ってくるじゃない? 映画でいうと心情表現でみせてくるタイプ」
「あ、あのぉ、先生……」
「オノマトペ専門の辞書になると、もうアクション映画だよね。カーチェイスとか、銃撃戦みたいに次から次に、ぬちょぬちょとかぬるぬるとか、直にクルから」
「せ、先生」
「ぅん?」
豊川先生は鷹揚に首を傾げられた。
「そろそろ、本番になりますんで……」
「あ、ホント?」
バスローブの前をかき合わせ、背筋を伸ばす。
「せ、先生!? 参加されます!?」
「スポンサーだから。僕」
「す、スポンサーの方は、あちら側でどっしり見学いただいて……」
ナンプラさんが、ガラスの向こうを指さす。
「僕、スポンサー気質旺盛じゃない? 金だけ出して口出さないのって、なんていうか、違うとおもうんだよね」
「時と場合によるかと……」
「ショルダーパッドもスポンサーやってるから、ダンス大会にも出るし」
「ス、スポンサー様はそこまで深入りなされなくてもよいかと……」
「深入りするのはコーヒーだけって誰が決めたんだい! 僕は、コーヒーにはうるさいよ」
山の天候のように次々と移りゆく豊川先生のお話に、あらがう術がない。
「こ、コーヒーですか、もって来させましょうか、コージ、コーヒーをお持ちしろ」
「は、はっぁっぃ!」
ナンプラさんは、それでも会話に食らいつく。この姿は見習うべきなのかもしれない。

「ダンス大会も近いのに昨日は休んでしまって申し訳ない。大会に向けて今夜からは健全にしっかりと営業していこう」
「はいっ!」
「ハルノキくん、元気いいね」
「はい!」
「なにかいいことあったんでしょ?」
棚田さんがこちらを向くと、事務所にいたナベさんや先輩数人の視線が集まる。
「オメ、さでは、スケだべ、このぉ」
「いや、そ、そういうわげでは……」
ナベさんにつられて若干言葉が訛ったが、気にならない。
「まあまあ、ハルノキくんは初日からしっかり働いてくれてるし、元気がいいのは大歓迎だよ」
「はい!」
「ところでハルノキくん」
「はい!」
「ちょっと動かないでくれる?」
「え?」
いききなり背後から、羽交い締めにされる。
先輩ふたりに抑えられ身動きできない。
「な、なんすか!?」
「おどなしぐしろ!」
両手の間に紐のような物をぶら下げたナベさんが近づいてくる。な、なんだ。
「じ、自分はなにもしてません!」
「やましいこどあんのが?」
全員が笑う。
ナベさんに背中から紐を回しこんでくる。
「……78、ぴったしだ!」
「やった!」
棚田さんが指を鳴らす。
「ハルノキくん! これ、着てみて!」
棚田さんの手元に載っていたのは、白いジャケット。
「店が主催の大会で、代表者が代々着てきた衣装なんだ」
「だ、代表?」
「今年は、ハルノキくんに任せることにした」
「た、棚田さん……」
「サイズもピッタリみたいだし、着てみてくれないかな」
「はい!」
白鳥の翼のように白く盛り上がる肩。胸元の上品なドレープ。華厳の滝を思わせるアクセントの効いた袖下のひらひら。
「この、果報者がぁ」
ナベさんや先輩方が、拍手してくれる。
「フリンジも1本ずつ丁寧にクリーニングしてあるから!」
このひらひらは、フリンジというのか。袖を通すと、彗星の尾のようにたなびく。
「いいじゃない! ハルノキくん」
「……すか!」
「ハルノギ、踊れ」
「こ、ここで?」
「ナベくん、音楽かけよっか、ウチの番組もそろそろダンスチューンの時間だし」
ナベさんが空中を摘まむように、指を捻る。
エアロスピーカーから、ビートの効いた曲が流れてくる。
身体が自然に動き出す。
感じろ、グルーヴを。

ガッ上げ゛ ンッ ガッ下げ゛ ァッ ガッ上げ゛ ンッ ガッ下げ゛ ンッ──

ガッ上げ゛ ンッ ガッ下げ゛ ァッ ガッ上げ゛ ンッ ガッ下げ゛ ンッ──

「ハルノキ、肩、キレッキレじゃねえか」
「いいね! ハルノキくん!」
「あ、ありがとうございます!」
曲が最高潮ピークに達する、ここで決めの──。
ギュゴギュゴギュゴギュゴ
あ、あれ?
バックスピンの音、ラジオが止まる。
「ど、どした?」
全員がエアロスピーカーに注目し──。

──ようようよう!──
渋みのある低音、この声は……。
──ネタバレが恐えヤツは今すぐラジオを消せ! ナンプラのオールナイトDOS×KOI 徹底攻略リターンズぅ ズぅ  ズぅ  ズぅ──
──小僧ども……約18時間のご無沙汰だったな。DOS×KOIやってか!──
「う、うそでしょ?」
棚田さんも明らかに狼狽した様子でスピーカーを見上げる。ナベさんはいちもくさんに部屋に隅に走りヘッドフォンをつけた。
「ナンプラどもだな! 逆探知しでやる!」

──スタジオ1軒潰して戻ってきたぜ! ──
──でっぇす!──
コージさんも!!

「どこだ! ナンプラ!」
棚田さんがスピーカーに向かって叫ぶ。しかし、ラジオの2人の声は止まらない。

──今日は、スペシャルゲストもきてる! この番組を立て直してくれた恩人! 紹介するぜ!──
──ちょっと待って──
──え…──
──ナンプラくんさ、ちょっと口調が乱暴じゃない? リハのときは紳士だったのに──

この声……、ま、まさか。

──こ、これはキャラっす──
──あ、キャラなの? じゃあ、いいよ──
──あ、改めて紹介するぜ! 豊川グループ総帥、豊川豊!──
──どうも、上から読んでも下から読んでも豊川豊です──

「ち、地下は封鎖したはずなのに」
隣で棚田さんは床に膝を落とす。
な、なんだ、この番組。豊川まで。

──この番組は、上空から地上まで豊な毎日を……豊川グループの提供でおおくりいたします──
──いたしまっぁっす!──
──今日は、第3話、マイティーベースだ──
──2話は飛ばしてもいいのかな?──
──さきに3話からいきやす。おい、小僧ども! 2話の紹介は飛ばす! 2話のあらすじは、ナツメとリッチャンが仲良くなる。以上だ。あとはオレのサイトの解説をみとけ!──
──ら、乱暴でっぇす!──
──小僧ども、いくぞ、DOS×KOIエクストラストーリー!──

DOS×KOI
エクストラストーリー 『マイティーベース』

シゲルくんがあんなことになってしまってから1週間、校内は日常を取り戻しつつある。
「ねぇ、ナツメぇ、知ってる?」
「ん? なんだい? リッチャン?」
後ろの席から女子の声。
声の主は、ナツメさんと、リッチャンさん。
机に突っ伏したままでもわかる。
校内上位組の2人。美女は声もかわいい。
いや、これは、断じて盗み聞きじゃない!
僕は気怠く次の授業を待つ、机に伏せるアンニュイな生徒。
ただ眠いだけ。
たまたま後ろの席の女子が話している声が聞こえているだけ。
「この学校さ……でるんだって」
「あ? 給食が?」
「それあたりまえだし! ちがう! 幽霊」
思わず、肩がこわばる。
ダメだ! これじゃボクが盗み聞きしていたみたいじゃないか。
「部活で残ってた先輩が、放課後に音楽室の近く通ったら、誰もいないはずなのに、いろんな楽器の音がしてるのに気がついて……」
「リッちゃん、そりゃ古典的な話じゃん?」
「ナツメ冷めすぎだし。少し驚けし!」
「学校によくある話だろ? それ」
「でも、寂しそうな音がするらしくて、毎日毎日、日替わりで楽器の音がするから先輩、1回音楽室のドア開けてみたら……」
「おう、そしたら……?」
「わっーーーーーー!」
びくんっと足が跳ね上がる。
机の脚にあたりが派手な音をたてる。
「オメー何、聞いてんし!」
バレた!?
「クニタチ! 返事しろし!」
リッチャンさんの刺すような声。
ね、寝てたんだ。ボクはいまこの瞬間まで寝ていただけなんだ。
「……んんんん? あ、もう授業はじまる?  やっべー、いま、崖から落ちる夢みちゃっ」
「ウソつくなし!」
「盗み聞きか? カスだな」
ナツメさんが軽蔑したような視線。
「ちょうどいいからオメー確かめにいけし!」
「え?」
「罰だ。罰。放課後、音楽室にいけし!」

──ちょ、ちょっとまって──
──と、豊川さんどうしました?──
──クニタチくんってさ、結局、女子と話せるポジションにいるってことだよね──
──そ、そうっすね──
──ホントの地味男子なら、ここはグッとクールに無視して腕の隙間からスカートの方をみてるとこだよね──
──そ、そうっすね──
──で、でっぇす!──
──とにかく、この後の展開で、クニタチは音楽室に行くことになるんだが……──
──とろける〜みるくり〜むえも〜しょ〜ん──
──あっぁっ! すみませっぇん!──
──コージ! おめぇ、本番中はimaGeバイブにしとけし!──
──ナンプラくん、それりっちゃんさんのセリフだね──
──わかります? 豊川さん?──
──にわかでもわかるし、それ──
──だがコージ! おまえは許さん! 本番中になに音だしてんだ?──
──す、すみませっぇん……あっあっぁ!──
──だから、なんだよ!──
──たったいまっぁ、DOS×KOI運営がプレスリリースを配信しましたっぁ!──
──読んでみろ──
──8月31日ミルクリ復刻配信が決定っぃ! ワンタイムチャンスの緊張感そのままにミルクリームエモーションが蘇るっぅ!──
──なんだと!? ミルクリ復活!?──
──は、はっぁい!──
──うん。僕のところにも来てるね──
──……本当だな。ミルクリ、復活……こりゃとんでもねえコトになったな小僧ども。ベータ版でしか体験できねえ伝説のミルクリームエモーションが公式に復活したってことは、クニタチを……、牛乳が飲み干せずに散った俺たちのクニタチを、男にしてやるチャンスがデキたってことだ! 豊川さんもやりましたね! これでミルクリできますよ──
──……………──
──と、豊川さん?───
──うん。決めた──
──な、なんです?──
豊川先生はおもむろに立ち上がり、バスローブを脱ぎ捨て、ゆっくりとテーブルの上に立った。

次回 2019年12月06日掲載予定
『 ミルクのゆくえ 01 』へつづく





「旦那の運転、サイコーだったじゃねえかよな。渋ってんじゃねよ、ハンコ2つってなんだよなぁ」
「いや、2つ貰えただけでもスゴイと思いますけど。でもそもそもなんでハンコなんですかね今どき」
「情緒があるだろ? 緊張して車乗って達成した喜びが実感できんだろ? みろ、この色」
蒔田がセイジの教習原簿を蛍光灯にかざす。
粗末な畳にちらつく光が陰をつくる。
あの原簿も本当は持ち出してはいけないもののハズなのに。この人、むちゃくちゃだ。
「綺麗な朱色でやんすね旦那ぁ! …あれ? 旦那?」
「セイジさんならもう部屋に戻りましたよ」
「おお? まだ9時前だぞ! 旦那ぁ!」
「いや、蒔田さん、他の教習生さんもいるから、あんまり大声だしちゃだめですって」
「なにいってやがんだ! 旦那はなぁ、VIPだぞ! 一般のヤツラとはワケがちげえんだ!」
まだ夕食を食べている人もいるというのに、なぜこの人はこんなことを大声で叫べるんだろう。合宿所に居候している身分だというのに。
「江田くん! 旦那を呼んでこい!」
「いや、もう寝てるかもしれませんし。明日も早いんですから、そろそろ……」
「まだ酒が残ってんじゃねえか!」
「いや、居酒屋じゃないんですから」
いっそのこと、酔いつぶして教習コースの真ん中にでも放り投げておいた方がいいんじゃないだろうか。
「ほほほ、若い方はおもしろわね」
いきなり広間の隅から声を掛けられた。
驚いて振り返ると、上品な浴衣を着たおばあさんが座っていた。
「え、江田くん、あのばーさん、みえるよな?」
「な、なにいってんすか!」
とはいいつつ内心、ホッとしてしまった。よかった。実在する人だ。一瞬、自分にしか見えてないんじゃないかと思った。
若者が多い合宿所に、なぜあんな高齢の方がいるのだろうか。
「ばーさんも合宿か!?」
デリカシーのかけらすら持ち合わせない男が、ずかずかと声をかける。
この人は、人間として最低限の知性を身につける合宿に参加スル必要があるんじゃないだろうか。
「ええ、わたしもここで免許取ろうと思って」
「どっちかてえと免許返しにきたんじゃねえのか?」
「蒔田さん! それはいくらなんでも失礼です!」
「いいのよ、確かにこんなおばあちゃんがいたらびっくりするわよね」
「すみません。でも、合宿って珍しいですよね」
「あたしも随分迷ったんだけど、宇宙最速ってのに惹かれて申し込んじゃいましたわ」
おばあさんは、口元を隠して笑う。
「でも、やっぱり歳をとると時間がかかるのよね」
「ばーさんはどのくらい教習進んでんだ? ハンコみせてくれよ!」
この人、前世は山賊でもやっていたんじゃないだろうか。
「蒔田さん、本当はその帳簿持ち出しちゃいけないんですよ。みなさん教習所に毎日返して」
「あら? そうなの? わたしも持ってるわよ」
おばあさんは、分厚い帳簿を取り出した。
セイジさんのとは明らかに厚みが違う。
「おっ! 年季はいってんな! おい! ハンコ、すげーじゃねえか!」
通行人の財布をむしり取るように帳簿を取り上げ、蒔田がページをめくりだした。
「す、すみません!」
「いいんですよ。面白いかただわ。でもあんまりみないで頂戴。そんなにハンコ押してあるの恥ずかしいわ」
「こんだけハンコ貰ってたら、とっくに卒業できんじゃねえのか? ばーさん、いま何段階までいってんの?」
「それがねえ、たくさん練習させてもらって教えてもらってるんだけど、一段階の試験、なかなか合格できなくて」
えっ……? だ、だってこのハンコの量は3人分くらい。
「ハンコの隙間がなくなっちゃって、紙を足してもらってるのにダメなのよ」
よくみると、ページの間にハンコを押す紙が貼り足されている。そ、それじゃ、この人いったいどれくらいこの合宿所にいるんだ。
「こんなに時間がかかるなら、地元に通った方がよかったかもしれないわよね」
「そ、そんなことないんじゃないですか……」
「家族にもいいかげん諦めなさいっていわれちゃって」
「ば、ばーさん……」
帳簿を掴んだ蒔田が絞り出すような声をだした。
「頑張ったんだな」
神妙な表情でおばあさんを見つめている。
「オレは感動した」
な、なんだ、急に。
「ばーさん、この帳簿はすげぇ。オレよ、どうしてもこれを見せてやりてえ人がいるんだが、少し貸してもらってもいいか?」
「え? ええ、いいですよ」
ま、まさか……この人。
「こんなに分厚いと持ち歩くのも大変だよなぁ」
「そうねえ、年寄りには重たくって」
「苦労してんだなぁ、よし、わかった! オレがなんとかしてやる! 明日、教習所に頼んで新しいやつに変えてもらおう!」
「そんなことできるの?」
「ああ! 任せろ! オレは蒔田ってんだ! オレが頼んでやるよ! だから、ちょっとこいつ預からせてくれ!」
困惑するおばあさんを尻目に蒔田は教習原簿を懐に差し込んで立ち上がった。
「じゃあ、オレも寝るわ! ばーさんまた明日!」
「はい、おやすみなさい」
蒔田は急に早足になって部屋を出て行った。
売る気だ。
セイジさんに、あのハンコを売る気だ。
間違いない。





掲載情報はこちらから


@河内制作所twitterをフォローする