河内製作所 小さなことを、ていねいに、じっくりと、考えていく
  前に戻る DOS×KOI     前に戻る

第115話『 ミルクのゆくえ 09 』

──この国の未来に、豊かな電力を、完璧にクリーンな、人力で Perfectパーフェクト Cleanクリーン Humanヒューマン Energyエナジー 人力電力──

いまのは一体何のCMだろうか。そしてあれから流れた何本目のCMだろうか。
「ナンプラのやづら逃げだべ。これ」
ナベくんがヘッドフォンを外し、だらりと両手を垂らしたまま背中をイスに預けた。彼がこんなに緩みきった姿をさらすことがあっただろうか。
CMは途切れる気配がない。
「たしかに、だめかもね……ハハハ……」
他のみんなも、空中をみつめて指を動かし時間をもてあますような素振り。ラジオから流れる軽妙な音声と反対に事務所の空気は重く息苦しい。
使い古した油でトンカツを揚げる定食屋さんの匂いがしてきそうだ。
まるで、犯人からの連絡を待つ大昔の誘拐映画みたいじゃないか。
「あいづら、チギン野郎だったな」
ナベくんのひと言に、へらへらと覇気のない声がぱらぱら賛同する。
みんな疲弊している。そりゃそうだよね。昨日はノゾミちゃんが乗り込んできて、飲み比べになっちゃったし。あんまり寝てないんだ。
ふと、睡眠時間のことを思い出してふわっと脳が揺れたとき、ラジオの音に間があいた。
ん?

──ネタバレ上等! ナンプラのオールナイトDOS×KOI 徹底攻略リターンズぅ ズぅ  ズぅ  ズぅ──

「っ来だっ…来だ!!」
ナベくんがヘッドフォンをかぶり体勢を戻す。
気づくと右手が痺れていた。電話の時代にはじめて電話する女の子と話した夜みたいに。
──待たせたな! 棚田! …さん──
しっかりしよう。
これ以上、ナンプラたちを調子に乗せない。
毅然と。
「いいえ。まったく。ワクワクしてました」
──じ、自信あるじゃねえか! …っす──
「ラジオだから見せられませんが、武者震いが止まりません」
──せ、先生、ホントに、いいっすか──
──もちろん。たぶん──
──や、そ、それこまりますよ──
「クイズ、続けてください」
しばしの沈黙。
揺動には成功してる。
──…ぃんすね? ク、クイズの答え、受けて立とうじゃねえか! …っす──
「ショルダーパッド一同、感謝します。これで惑うことなくダンス大会が開催できます」
──じ、自信満々だな! …っす──
「満々にならない理由がみつかりません」
──答える前に、ひとつ条件を出させてもらう。クイズに不正解した場合、大会はDOS×KOIで確定。今夜この場でフィックス。ファイナルアンサーだ! …っす──
「その条件、そのままそちら側にも当てはまるんですね?」
──もちろんだ。大会にはショルダーパッドの全員に協力を要請するぞ! っす──
思わず振り返ると、みんなが無言で拳をふり掲げていた。なぜか鼻の奥がきゅんと締め付けられる。ありがとう。
でも大丈夫、僕がチーちゃんの名前。忘れるわけがないじゃない。
大会に協力するのはラジオの向こうにいる3人の方だ。一切の関わりを絶ってもらうのが最大の協力になるだろうけど。
「では、答えてよいでしょうか?」
──よし! 言ってみろ! っす!──
軽く息をすい込む。
「chibusaさんの本名は……」
そのとき、視野内にポォンっと、メッセージアイコンが浮かび上がった。
タイトル、“棚田様 至急”? と、おもったら、勝手にメッセージが開く。
自動開封メッセージだ。
視野内に飛び込んできた文面には……。
──さあ、どうした? 答えは?──
………うそ……でしょ? 
──どうした? 棚田! …さん!──
ぐ、ぐ、ぐ。
目を釘打ちされたような衝撃。
なんで、このタイミング!?
これ、絶対に……。
「ぐぬ…」
──悩んでるみてえだから、制限時間を設けよう30秒経っても答えられねえ場合は不正解とみなす! っす──
「なんだどコイヅ! オメらは30分も待だせどいで!」
「ぐ、ぐぬ……ぐぬぬぬぬぬぬぬ」
──ぐぬぬぬ? chibusaさんの本名は、そんなロープレの勇者に適当につけるような名前っすか?──
「違う! これは、その…」
「どしたんだ? 棚田さん!? いっぢまえ!」 
ナベくんを先頭にみんなからの声援が飛ぶ。
で、でも。これは……。
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ」
はったりに決まってる。僕はただ学生時代からの友達の名前を口に出そうとしているだけなんだ。なにも問題は……。
──さあ、答えを!──
でも、このメッセージは。
「ぐ、わ、」
声を絞り出せ。
──わ?──
チーちゃんの名前は……。
「ぐぬぬんうぬ……ちぶさ」
チーちゃん、キミの名前は……!
名前は……。
「わ、わ、わ…わか…わかりま…せん……」
──不正解!──
──うん。よくデキました。クイズは不正解だけど、社会人としては正解なんじゃないかな──
豊川!
「ぐぐぐぐぐぐぐぐっっっっぐ!」
「なじょにしたんだ! あだに自信満々だったのに! 棚田さん!」
ナベくんが肩を揺すってくる。
みんなも駆けよってくる。ごめん、みんな。
僕は、僕も、僕も、……くやしい。
──これは、不正解とみなしていいようだな。よし! 大会、決定!──
こんなに、あっさり、僕のダンス大会が。
──棚田さんにはっぁ、残念賞としましてっぇ、大会Tシャツをお送りいたしまっぁす! 旧大会名が書かれたレアものでっぇす!──
踏みにじられていく……。
「コージ! いげしゃぁしゃぁど! オメなにしてんだ!」
ラジオにナベくんの怒声が流れた。僕のVOICEが拾っているようだ。
ナベくんの歯が折れちゃうくらい軋んでる。
ごめん。僕がふがいないばかりに。
──クイズはっぁ、正当に行われていまっぁす!──
「オメ、ちょーしこいでんでねぇぞ!」
ナベくんが空中に向かってヘッドフォンを投げつける。
しかしそれっきり音声は届かなくなった。
こちらのVOICEは切断されてしまったようだ。
──先生、改めて大会宣言、お願いします!──
ナンプラの勝手な物言いが事務所を占拠する。
──う、うん…………──
勿体ぶった豊川の咳払い。
──あ、服は脱がず、あ、イスに座ったままで結構ですから──
──いいの?──
こんなふざけた連中に。
──はい。宣言をとにかく──
負けてしまう。
──………8月31日DOS×KOI大会、開催! 大会名は、クニタチ男祭り! 決定!──
──小僧ども! 2063年8月31日をいますぐカレンダーに登録だ!──
──詳細はさ、スペシャル番組とかで放送したいんだけどさ──
──いいっすね! 派手にやっちまいましょう──
──じゃいまから企画会議しようか──
──ば、番組は──
──僕、思うんだけど、今夜はもうミルクリームエモーションのリズムを浴びて大会へのコンセントレーションを高める時間に充てるべきだと思うんだよね──
──つ、つまり、その、ミルクリをヘビロテで流せばいいってことっすね!──
──そうなるね──
──よぉし! 小僧ども、今夜はここまで! ここから朝までミルクリエンドレスリピートだ!──

「なにしてるの!? 棚田くん!」
chibusaさんが叫びながら立ち上がる。
店内の時が止まり、カウンターのお姉さんは笑顔を張りつかせたまま固まった。
注目を根こそぎ掻き集めてしまったようだ。
「ち、chibusaさん……落ち着いてください」
「だって! アタシの名前よ? なに? わかりませんって!」
「と、とにかく座ってください」
そっと、そぉっと、肩に触れてしまわないよう細心の注意を払いつつ、chibusaさんの肩口へ指先を近づけ、腰を下ろしてもらえるように下へ下へと手でジェスチャーする。
空中を睨みながらもchibusaさんはゆっくり、イスに座り直す。よかった。
「なんで…? え、なんで?」
しかし、表情には険しさと、放心したような憮然とした雰囲気が同居している。
「アタシの名前、知らないの?」
さっきまで、らんらんと発散されていた目の光りは陰り、ガラス玉のように空虚な瞳が、ぼんやりとした視線を寄越す。
「そ、その、アレです……」
二の句がつながらない。たしかに、なぜだ。棚田さんは本当にchibusaさんの名前を知らなかったのだろうか。
「もしかして、棚田くん、アタシの本名しらない? それとも、忘れた?」
「そ、そんなわけないですよ!」
「だって、アナタもアタシのフルネーム知らないでしょ?」
「ち、chibusaさんの………すか…」
たしかに、知らない。けど棚田さんは絶対に知ってるはず…………じゃないのか?
「まあアナタは仕方ないわ。知り合ったばかりなんだし。名乗った記憶もない」
「そうですよ! でも、棚田さんとは高校時代からお知り合いなんですよね?」
「……アタシさ、髪切りにいくサロンに仲良くしてる美容師のアシスタントさんがいるのね…」
「え? は、はい?」
「若い男の子なんだけど、人懐っこくてさ、ブルドッグみたいなかわいい顔してるの」
ブルドッグ顔でかわいい…いや、そこはいい、なんの話だ?
「もう5年くらいかなぁ、行く度に話、盛り上がるんだけど、アタシ、ずぅっと負い目を感じちゃってるわけ!」
「ど、どうしてすか?」
「名前、知らないの。アタシ、その子の。はじめに紹介されたのは覚えてる。でも、そんなの聞き流しちゃうじゃない? その後、話すうちに仲良くなったけど、いまさら名前聞ける? けっこうぶっちゃけた話とか散々したあとにさ、ねえ名前なんていうの? って、言うのは簡単よ、でもそんなことしちゃったら、そこまでの時間が全部ウソみたいじゃない!」
「め、名刺とかもらえないんですか?」
「試した! その子はまだ見習いだから名刺ないって。だから最近、サロンにいる間はずぅーっと聞き耳たててるのよ? ほら、美容師が名前呼ぶことあるじゃない」
「わかったんですか?」
「ぜんぜんだめ。呼ばないの誰も彼の名前」
「それは、困りましたね……」
「棚田くん、アタシのこと“チーちゃん”って呼ぶけど、高校時代はみんなにそう呼ばれてたから、マネしてるだけだったのかもしれないわ。chibusaってアタシの苗字だけどさ」
chibusaさんは苗字なのか。でも確かにそれでフルネームを知っていることの確証にはならないか……。
「いや、でもそんなことあります? だって棚田さん、chibusaさんに宿題を丸写しさせてあげたりしてたんですよね? いくらクラスメートでも名前知らない人にそこまで…」
「なんでそれ知ってるの!?」
ライオンが檻に飛びつくような勢いでchibusaさんの顔が迫る。
「いや、その、棚田さんに……すみません」
吐息、chibusaさんの甘い息づかいが…近い。
「まあ、そうね。覚えてるからアナタがここにきたんでしょ?」
納得してくれたのか、再びイスに座る。
少し惜しい気もするが、公衆の面前であれほど至近距離に迫られるのは恥ずかしい。
「“B-”で、まっさきに思い出してました」
「さすがにアレは、忘れてないよねぇ」
「あ、あの、話が脇にそれてしまうんですが」
「アタシ、寄り道大好きよ。なに?」
「chibusaさん、夏休みの宿題、作って提出したのは、本当の話なんですか?」
「本当よ…。そうよね……だって、そうよ!」
chibusaさんは唐突に空中に1枚のエアロディスプレイを呼び出す。
「どうしました?」
「そうよね、そうよ、そうそうそう」
な、なんだ? そう、僧のことか? それとも 走? 草? 荘?
もの凄い勢いでエアロディスプレイがスワイプされる。アルバムらしき画面のなかを激流のごとく画像が通り過ぎていく。
「コレ! コレ、覚えてるんならアタシの名前、忘れてないわよね?」
突然エアロディスプレイがこちらへ向く。
写っているのは、どこかの教室、机の上に1冊の紙の束ともぎ取られたように上部が破れた1枚のレポート用紙。
chibusaさんの白くて長い指が、画像の上部に写る、ちぎれた紙をさす。
“風物詩 夏 ~盆踊りに対するカウンターカルチャー的アンチテーゼとしてのダンス大会に関する考察~”と書かれた長い題名。
その下には“3年1組 棚田 幸運”とあった。
「棚田くんさ、“幸運”って書いて“ラック”って読むのね」
「ら、幸運ラック、……すか?」
あの物静かなマスターのセンスではなさそうな気もする。ラック……って、棚…という意味もある…棚田棚……、一瞬、豊川豊に通じるものを感じてしまったが、いまはそこじゃない。
「もしかして、この画像……」
「アタシが“作った”レポートの記念写真」
chibusaさんの指が、こんどは真ん中の紙の束の方へスライドしていく。
「記念とか、思い出とか興味ないんだけど、これだけはなんとなく消せないのよね」
chibusaさんは夏休みの宿題を“やならない派”。でも宿題を提出しなければ留年と宣告された高校3年の夏休み。窮状を見かねた棚田さんが先生から返却された自分の宿題をchibusaさんに写してもいいよといったとき、chibusaさんはレポートを丸写しにするどころか、表紙だけ入れ替え、宿題のレポートを“工作”した。
この画像はおそらく、元は棚田さんのレポートだった紙の束の表紙を引きちぎり、新たに表紙を取り付けた直後のもの。
「棚田くんの名前は結構ピカついてるけど」
エアロディスプレイの上をchibusaさんの指がスルスルっと移動し、表紙の下部で止まった。
指が示す先には女子のものとおぼしき筆跡。
“千房みるく”と記されている。
「こ、これがchibusaさんの……」
「そっ、アタシはどちらかというと名前負け」
「な、名前負け、すか?」
チブサ、ミルク……バウンスアーティストとして活躍するchibusaさんならば、むしろベストマッチといえるんじゃ……。
「アタシ、牛乳ミルク嫌いなの。千房みるくって、牛乳、好きそうじゃない? なのに飲めない。名前負けでしょ?」
気づくと膨らんだ胸元を凝視していた自分を殴りたい。
「だから引っ越しのときに本名、消したの」
「そんなことできるんですか?」
まるで家具を処分するような言い方だ。
「できる、らしいわよ。どこかにお金払うとネットワーク上から全部消してくれるんだって。プライベートの水泳選手? みたいなの雇うと」
「水泳選手!?」
「よくわかんないけどクロールが速いって」
プライベートの水泳選手、クロール……もしかすると“Crawlingクローリング imaGeイメージ Agentエイジェント”、通称“CIA”のことだろうか。
ネットワーク上をくまなく巡回クロールして特定の情報を探し出すプログラム。見つけた情報を片っ端から強制的に削除や置換することができるという。
「過去の記録を完全削除するって相当な費用と時間がかかるんじゃないんですか?」
都市伝説くらいの噂でしか知らないけどプライベートで“泳がせる”には相当な資金がいるらしい……chibusaさんほどの著名人ならそれくらいは楽勝なのか。
「あー、そういえばブラちゃんがそんなことボヤいてた。記録の全消去って脇の下の永久脱毛みたいに何回も何回もめんどくさいって」
「あの、ブラちゃん……というのは」
「アタシのマネージャー。優しい子なんだけど、細かいことにうるさいのよね、なんだっけ、ロイヤリティ? とか、パブリシティ? とか」
「chibusaさん程の著名人なら当然ですよ。さっきのラジオみたいに世の中、勝手に名前使ってやろうとする輩が大勢いますから!」
「そ、そういうもの?」
「そうですよ! 他人様の名前でメシを食おうなんていう論外な輩が……名前を勝手につかう……論外……勝手に……」
…………い……いや…、論外な輩……、うん。ひとり、知ってるな……。いま、まさに、名前を無断使用して拘留されている、輩……。元・トップゲーミングアスリート、現・特区の拾いタバコ共同組合の元締め……。
「ん? どうかした?」
「な、なんでもないっす」
「輩みたいな連中ねえ。アタシchibusa名義ならいくら使われても別に構わないんだけど」
「ホントっすか!?」
「そりゃそうよ。chibusaって名前で生きてるんだもん」
「例えば、例えばですが、chibusaさんを尊敬する人が、chibusaさんにぴったりの商品を開発した場合、ぜひ商品にchibusaさんのお名前をこう、そっと、添える程度に使わせていただくことは可能なんでしょうか」
「添える? それはイヤ」
やばい。
「アタシは前菜じゃないわ。名前使われるならドーンとメインにして貰わないとイヤ」
chibusaさん! さすがっす!
「昨日もアタシのタバコつくって貰ったけど」
chibusaさんがゆるやかなサマーセーターの胸元から取り出したのは、紛れもなく、PARK WILDE chibusaシグネチャーモデル。
も、持ってたの!?
「どうせなら、これもアタシの名前バーンと載せときゃいいのに」
「そ、それっす! chibusaさん!」
「なに? さっきから」
「そのタバコにドカーンとchibusaさんの名前載せて発売したいんです!」
おっさんが一生懸命手彫りした大根ハンコで、サインをぺたぺた貼り付けて。
「これに?」
「ぜひ公式に、パブリシティ的な許可を頂戴できないでしょうか!」
「うん? 全然いいわよ? 逆になにか問題あるの?」
マジシャンが手品を披露しても意味がわからずにテーブルをみつめる少女のようにchibusaさんの目が丸くなる。
「ないっす! ないですよね」
「あ、でも、いちおうブラちゃんには報告しとく。いっつも後で怒るから」
今度はこの店の中で、唯一自分だけが硬直する番だった。“いらっしゃいませー”というカウンターのお姉さんの明るい声が別世界の出来事のように耳を通り過ぎていく。
「お、お、おねがい、できます、か」
chibusaさんの行動をチェックし時として叱ることもやってのける“ブラ”という人物が、わけのわからないタバコに名前を貸すなんていうことをすんなり許可してくれるのか。
「……ねえ、ハルノキくん。ねえ!」
気がつくとchibusaさんの肩に、みぞおちをつつかれていた。
「聞いてる? ここじゃVOICEできないから外いきましょ。タバコ吸いたいし」
「こ、これは! 気が回らず!」
テーブルを見渡す。
「なにしてるの?」
「ただいま灰皿を!」
灰皿! どこだ!
「あるわけないでしょ、特区じゃないのよ」
「え?」
「特区外のお店で吸えるわけないでしょ。外いくわよ。喫煙所あるから」
「お、お供いたします!」

chibusaさんに連れられて辿りついたのは駐車場の外れ設置された薄暗い喫煙所。
古びたスタンド型の灰皿とベンチ。
ベンチはどころに水色のペンキが残っているが木製であることがひと目でわかるほど剥げきっているのに、chibusaさんはログスカートの裾をまとめ、躊躇する素振りもみせず腰かける。
「い、いいんですか」
こんな粗末なベンチに。
「んっ?」
上目遣いでこちらをみつつ咥えた細いタバコに火をつける。微かな煙が鼻腔を撫でるように通り過ぎていく。
「座ってタバコが吸えるなんて、特区に近いだけのことはあるわ。…あれ? 吸わないの?」
「あ、いや、タバコを切らしてまして……」
「これでいい?」
スッとPARK WILDEを差しだされた。
「い、いいんすか!?」
「あたりまえでしょ」
chibusaさんがベンチの空きスペースをポンポンと小さく叩く。
喫煙所の周辺は明かりが乏しく薄暗い。離れたところにみえる売店の明かりが妙に眩しい。暗がりのベンチでchibusaさんと並んでタバコ。
喫煙所の裏手は植込みを挟んで道路になっているが、もともと走行音がしないホバーカーばかりが走る高速道路、時間も深夜に近づき交通量も減っているため、耳鳴りがするくらいなにも音が聞こえない。
chibusaさんと2人きり。
こんなに静かな場所で…。
プレミアもののシチュエーション!
と、思った矢先。
「さっ、ブラちゃんにVOICEしちゃお!」
入れ替わりにchibusaさんが席を立つ。
肩透かしを食らったような気分。
「恥ずかしいから、あんまりみないでね」
「へ?」
chibusaさんはベンチから数歩進み、左手を耳に添え、さらに首を傾げるような角度に頭部を固定し空へと向かって右手の人差し指を伸ばした。
これがchibusaさんのVOICEジェスチャー。
教壇に立ち一生懸命に生徒を諭す新米女教師のような初々しい仕草。
年上の女性に失礼なのかもしれないが、率直にいって、かわいい。
ブリタニカルの蓋をそっと開けタバコに火をつけた。邪魔をしないように、いまはブリタニカルの開閉音は押さえておこう。
「あ、つながりそう」
つながりそう? imaGeがつながらないなんてことあるのか?
「あ、ブラちゃん!?」
VOICEがつながったようだ。chibusaさんがこちらに背を向けて肩をすくめた。
「やってるわよ! ちゃんと。お仕事だから、え? もちろん。良い感じに進んでるわ…それでさ…ちょっと話が……」
人差し指を突き上げたまま少し離れた場所へ歩いて行く。声は聞こえなくなったけど、指を突き上げているのはわかる。ずいぶん個性的なVOICEジェスチャーだ。黒板を指し示す新米教師のような姿勢のchibusaさんを眺めながらゆっくりタバコの煙を吸い込む。本人から貰ったchibusaシグネチャーモデルは格別な味わい……染みこむように、意識を活性化させてくる。
「ハっ!? なに? それ」
暗闇から聞こえてきたのは、沈痛なchibusaさんの声。瞬時に趣深い時がかき消える。
「なんで……ダメ……」
ダメ……やはり、シグネチャーモデルの許可は……。
「ちょっと、待って。また気が向いたらかけ直す……いまはムリ……バイバイ」
それっきりジェスチャーをやめ、こちらへ歩いてきたが、足元がふらついている。
「chibusaさん!?」
返事もなく、小石でも飛んできたような小さな音だけをたてchibusaさんがベンチに座る。
「………ち、chibusaさん……」
ゆっくりとした動作でchibusaさんがこちらに顔を向ける。暗がりでもわかるほど肌が青ざめている。
「大丈夫ですか。もしかすると、タバコの件で、ご迷惑を……」
長い髪が左右に揺れる。
「それはオッケ、許可させた……」
「じゃ、じゃあ」
「……棚田くんが名前いえなかったの、ブラちゃんのせいみたい」
「ど、どいうことですか?」
「豊川が、手を回してた」
「と、豊川……もしかして、事務所に」
小さく髪の毛が縦に揺れる。
本名を明かそうとしている人間がいることを、マネージャーに通報したのか。
「たぶん、棚田くん、答えを言おうとしたときにブラちゃんが送ったメッセージをみたんだと思う。それで、わかりませんって」
「で、でも、それなら棚田さんはchibusaさんの名前を知らないわけでも、忘れたわけでもないってことですよね! そこは良かったですよね」
物は考えようだ。プラスに捉えれば、どんなネガティブなことでも前向きなことになると誰かがいっていた。
「…………そっかぁ……嫌われてたんじゃないのかぁ………」
「当たりまえじゃないですか! 自分がみてるだけでも棚田さんはchibusaさんのこと嫌いになったりするわけないっす!」
「……嫌われてた方がよかった……」

暗闇の中でタバコの先が光るだけ。
chibusaさんはあれっきり言葉を発しない。
横目で顔をみても暗くて表情がわからない。
気まずい沈黙が夜中に出る霧のように闇の中に充満していく。
「あ、あの」
chibusaさんの方からは煙を吹き出す微かな音がするだけ。棚田さんから嫌われていた方がよかったと口にしたまま身じろぎもせずタバコを吸っている。
まったく理由がわからない。
名前を知らないかもしれないとあれほど心配していたというのに。今度は“嫌われたい”と落ち込んでいる。
な、なにか、話をしないと。
なにか話題を…。
「アタシさ」
chibusaさんの晴天に落ちてきた雨粒みたいに、唐突で冷たい声。
「は、はひ?」
「高校出てスグ、上に行ったの」
「う、うえ?」
「上空」
「じょ、上空!? も、もしかして、chibusaさんは、上空市民様でいらっしゃるんですか!?」
そうか…さっきのあのVOICEジェスチャーは、“上空VOICE”のジェスチャーか! 考えてみれば普通のジェスチャーなら、発信するときと切断するときにだけ行えばいいのずっと空に向かって指を立てていた。あの仕草は、地上から上空に通信するためのアンテナ……。だから通話中ずっとあのポーズで話していたのか……。
「別に普通の人間よアタシ」
「し、しかし……」
「まいいや。当時の上って、まだ開発中でなーんにもなくってさ、夜はここみたいに真っ暗なとこがいっぱいあって、いつも星をみながらタバコ吸ってたの」
「ひとりで……」
「上には行ったっていうより、連れてかれたっていうほうが正しくって。DOS×KOIの仕事を気に入った人がどうしても仕事したいって人がいて。だから上空に知り合いもいないし、なんにもないし、全然つまんなくって」 ポツポツとしたたりはじめた雨が本降りになっていくように、闇の中へchibusaさんの声が落ちていく。
「作品のこと考えてるの楽しくて。どんどんイメージが膨らんで。星みても、タバコ吸ってもご飯食べても、おっぱいと躍動と、言葉にもならないような感情が、ぐるぐるしてた」
「さ、さすがです」
「でもさ………」
「chibusaさ──」
肩が、震えてる。
覆い被さるように、こちらに倒れこんできたchibusaさんの肩が。
「……どうしよう」
言葉の雨は、胸元に染みこむリアルな水滴に変わって生温く服に染みはじめた。
「ないの。なんにも、なーんにもないの」
生温い感触がどんどん広がる。
「頭の中、もう空っぽ。すっからかん。作りたいものとか、やりたいこととか、なんにもないの。棚田くん……棚田くんにさ、いいとこ見せたかったのにさ、わかんないの」
自分の左右の手をどうすればいいのかわからない。小さく震えるこの背中に回せばいいんだろうか。で、でも。
「だったら、もう嫌われてた方がいいでしょ。名前いわないの嫌われたからだとおもったのに、棚田くん、やっぱり優しいの。アタシの名前、いわないで、大事な大会だったのに。なんにもない、アタシのために」
「じ、自分なんて、もっと。なんにもないっすよ!」
chibusaさんの肩を掴む。
ハッとしたように顔を上げた目と視線があう。
「皆無っす! 自分なんて中身すっかすかっす! 人の心の研究してる専門家のお墨付き。すっからかんなんです!」
肩がまた震えた。
今度は、悲しい揺れ方でなく、堪えきれない笑いを感じたときの揺れ。
「自分のこと、卑下しすぎじゃない?」
雨が上がった。
chibusaさんの瞳は真っ赤になってるけど、下まぶたに滲んだ涙に虹がみえたような気がした。
笑ってくれている。
「いや、ホントなんです! みてください!」
エアロディスプレイを呼び出す。
写真、どこだ!
あの写真をみせれば!
エアロディスプレイの画像ファイルをめくる。
「これ! このタマゴみてください!」
「なに? これ」
「人間の中にあるキモチや老廃物とかをまとめて排出したものです。つまり自分の分身っす!」
「綺麗な色じゃない」
「薄っぺらい人間だから色もついてない、中身も空っぽなんです! こ、こんな自分と比べるの失礼なの、わ、わかるんすけど、chibusaさんなら、もの凄く綺麗で深い色に染まると思いますだ、だから!」
自分でもなにを言おうとしているのかわからなくなってきた。でも、いまchibusaさんになにかいえるのは自分しかいない。
「まもるさんの産んだタマゴもみてください! このまがまがしい風体!」
どこだ。あの脂肪100%のタマゴ。
エアロディスプレイをめくる。
画像をめくる、なんで、こういうときに見せたい画像はスグに出てこないんだ──。
「ちょっと待って! なに! 今の写真!」
chibusaさんに右手を掴まれた。
「こ、コレっす! まもるタマゴ!」
「違う! その前のヤツ!」
「え?」
「タマゴの画像の前のヤツ!」
「タマゴの前……」
1枚画像を戻…いや、これは。
「クレイジー!」
そこに写っているのは、タマゴを産んだ直後のまもるさん。生まれたままの姿で全身から湯気を立ち上らせて、頬は赤く上気しているが、げっそりと痩けて虚ろな表情でカメラをみている。
「フォット、ジェニック!」
chibusaさんの目が輝く。
はじめて一緒に特区を散策した夜のように。
「こ、この画像がそんなに……」
「いますぐこの画像をアタシに転送!」
chibusaさんの声がいつもの調子に戻っていた。まもるさんの、産後画像1枚で。
「これだわ!」
転送画像を受け取るとchibusaさんは、食い入るように画像のいたるところを拡大しはじめた。

視野内の時計が0:00を示す。
給料振込の時間だ。
これでクルマを手配して特区に戻れる。
「あ、あのぉ、chibusaさん」
chibusaさんはまだ画像を眺めている。
「なぁに!」
画像に向かったまま返事をしてきた。
「そろそろ特区に戻ってもいいかとおもっているんですが、帰りのクルマを手配してもいいでしょうか」
「アタシは、ここでいろいろ考えてくから」
「こ、こんな暗がりに独りじゃ危ないですよ」
「……アイス食べにいく」
chibusaさんがベンチから立ち上がる。
「で、でも」
「だいじょーぶよ。そのうち特区にちゃんと戻るから」
こちらには目もくれず画像をみたままだったchibusaさんが急に振り返る。
「ねえハルノキくん」
スカートが潮風に吹かれて少し揺れた。なびく髪を押さえつつ、強い目線を向けてくる。
「アナタ、全然つまらなくなんかないわよ」
「えっ…!?」
聞き返すより早くchibusaさんが踵を返す。
右手をヒラヒラとはためかせながら、まるでダンスでも踊るような足取りで画像を眺めたまま暗がりへ消えていった。

高速道路の出口過ぎてタクシーは速度を緩めはじめる。
大会は、DOS×KOIに決定した。さっきから流れているこの“ミルクリームエモーション”がメインの課題曲らしい。
行方不明だったchibusaさんの消息もつかめたし、期せずして、世界中で非公開になっているフルネームを知ることになった。
ミルクリームエモーション。
千房みるく。
考えてみると、“ミルク”に振り回された数日間だった。
車窓の外を流れる夜景。
特区の光が近づく。
思わず“ただいま”といいたくなるほど、いつのまにか見慣れていた街並み。
流れていく街灯。
くわえタバコで街ゆく人々。
歩道と車道の間に浮かぶ人影──。
「ちょ、ちょっと止めて! ストップ!」
音声を感知して急停車したホバータクシーのドアをこじ開け、むくむくとした影に駆け寄る。
「まもるさん!」
「むん! フォルテッシモロング!」
振り向きざま、まもるさんが飛びついてくる。
「ちょっ! やめてください!」
思わず平手で頬を張る。
寝起きに冷や水を駆けられたように、まもるさんの目がハッと醒めた。
「は、ハルノキくん!?」
「もしかして、まだ探してたんですか?」
「うん! みて!」
まもるさんの両手に大きく膨らんだビニール袋がいくつも握っている。
「も、もう、探さなくても大丈夫っすよ」
「ダメだよもっと集めないと!」
「パークさんが帰ってくるんです」
「ほ、本当に!?」
「だから一緒に帰りましょう」
しかし、タクシーをみたまもるさんは怯えたウサギのような顔をする。
「ボク、た、タクシーには乗らないよ!」

後部シートに座り直し、身体中の匂いを嗅いでみても、タバコの匂いはしない。
でも、まもるさんはどこかに残ったchibusaさんのタバコの香りに反応したんだろう。
chibusaさんの髪の匂いがふわっ鼻腔に蘇り、思わずタクシーの後部ウインドウを振り返る。
ホバーカーが浮遊するのとおなじ高度で道路の上を浮遊するまもるさんが、車両後部につながれた紐に引かれてついてくるのがみえた。
全裸の画像が世界のバウンスアーティストにあれだけ注目される、フォルテッシモロングの匂いに敏感なまもるさん。
フォルテッシモロングの匂いに敏感と言うことは、つまりchibusaさんの香りを自分よりももっと鮮明に感じるということなのか……。
不覚にもまもるさんのことが、ちょっとだけうらやましくなった。

次回 2020年05月08日掲載予定
『 クニ、タチぬ 01 』へつづく





「江田くん! 早く!」
事態は一刻を争う。
ここは戦場だ。
とでもいいたいのだろうか、映画でみる鬼軍曹が“ハリー! ハリー! ハリー!”と新兵をまくし立てる雰囲気で蒔田さんが手招きしている。
背後の方から、けばけばしく戦場的なピンク色のネオンに照らされ仁王立ちした格好の男が、どうしてここまで厳めしい顔ができるのか。
「衛生兵! バッグを! 早く!」
蒔田さんからも戦場的な比喩がでる。心の中がシンクロしているみたいで気味が悪い。
「まだ行けんのか! なんだこれぇ!!」
蒔田さんは、自販機のボタンを押し続ける。ボタンを押下するたび、ガボドンッという重みのあるなにかが取り出し口に落ちる音。
「江田くん、片っ端からバッグに詰めろ! 早くしろ!」
今度は強盗のような要求を突き付けてくる。
恐怖は感じないが、機嫌を損ねると面倒なので従う。早く戻って眠りたい。
取り出し口に貯まった物体は、古い髪型をした女性が露わな姿で写る写真が収められたプラスチックの箱だった。
被写体女性の年代がどうしても、母さんやおばあちゃんの年齢に重なる。あまりみたくない。
それにしてもこの箱には一体なにが入っているのだろう。動かすとカタカタ音がして、ずっしりとした重みがある。
「手をとめるな!」
蒔田さんがボタンを押しながらこちらに厳しい視線を向けてくる。少し、正気を失いかけた眼差しだ。金に目が眩んだ時とはまた別の、衝動に駆られた危険人物を彷彿とさせる独特の輝き。
「蒔田さん…そ、そろそろ」
「エロ自販機だぞ!」
スターダストメイツシールを剥がすために炭酸飲料を探していたが、蒔田さんが見つけたのはアダルティックな商品を扱う自動販売機だった。
この人は、怪しげなものを手繰り寄せる天賦の才を宿しているのかもしれない。
いや、才能ではなく“カルマ”の方かもしれない。いずれにしても、これ以上一緒にいるのはイヤだ。なんとかレンタカーを返却してこの人と離れよう。
「伝説の自販機! こんなチャンスは2度とない! 前髪をつかみ取るんだ!」
ライトアップされた自動販売機の正面は、猥雑な写真の箱が並ぶ。蒔田さんはボタンを押し続ける。そして1番問題なのは販売機の“残額表示”。
「みろ! まだ9,999円のままだ! 取り放題じゃないか!」
商品の下には1,000円と表示が出ているのに押しても押しても減らない。それどころか蒔田さんは最初の1,000円すら投入していない。
どう考えても、おかしい。なにかの罠じゃないのか……。慎重に当たりを見渡すと、自販機の右上斜め45度の方向に浮かぶ黒い影が目に入った。
(蒔田さん…)
声を出してはダメだ。
「邪魔するな!」
(いや、あの、あれ、カメラじゃないですか)
蒔田さんの動きが即座にとまる。
空中で指を伸ばしたまま凍りついたように。
防衛本能がカメラという言葉に鋭敏に反応したのだろう。
(なんだと)
(さっきから上に浮いてます)
(なぜそれを早くいわない)
(とにかく、ここを離れましょう)
(そっと動くんだ。不審な動きはするな)
あなたはずっと不審だったと思う。
蒔田さんは人差し指を伸ばしたまま。首も腕も腰も全て体勢をキープしたまますり足で後進しはじめた。なんという器用な動き。そして、不自然きわまりない不審な挙動なのだろう。

「いやぁ、大漁、大漁」
駐車していた車に戻りバッグの中を覗く蒔田さんは、昔話に出てくる守銭奴が小銭を貯め込んだ壺を覗き込むような歪んだ笑顔をしている。
「それ一体なんですか?」
「わからん」
もしこの車にシートごと飛び出せる脱出ボタンがついていたら、どんなに危険でも即座に押していただろう。
得体のしれないものにあれほどの熱量を向けていたのか。
「でも、エロだ。これだけは間違いない」
蒔田さんが箱を開けた。
「また箱がでてきたぞ」
中にはさらにプラスチックの箱形の物体。
外箱との違いは、2カ所の透明な窓の中に黒いテープのようなものが収まっているところだ。
「こいつは、もしかするとビデオテープってやつじゃないか」
「蒔田さんみたことあるんですか?」
「ない。だが、聞いたことはある。専用の機械で再生することができるらしい」
「蒔田さん持ってるんですか?」
「ない。あるわけないだろうそんなレトロな機材、きっと高価なものだ」
「じゃ、じゃあ、それどうするんですか……」
「とにかく商品は大漁に手に入った。きっとどこか、まだ出会っていない、ご縁のあう“旦那”がお高く買ってくれるはずだ」
この人は運命の相手みたいな考え方でもって“旦那”と呼ぶ人を見定めているのか。
「よし、決めた」
「いやです」
「決めたんだ。セイジの旦那が免許を取った暁にはコイツをもって、特区にいってみよう!」






掲載情報はこちらから

@河内制作所twitterをフォローする